馬琴の妻お百と会田氏

 曲亭馬琴と偕老同穴で連れ添った妻お百は、嫁の土岐村路が美化されるのに比して悪妻とされ、人気がない。そのためか、その家系についてもまとめた文章が見当たらないが、内田保広が言うように、武蔵国埼玉郡の現在の越谷市の生まれで、会田氏であることを考えると、馬琴が兄羅文とともに俳諧の師と仰いだ越谷吾山との関係も、あながち否定できないだろう。(「書評・高田衛曲亭馬琴』」『国文学研究』早大、二〇〇七http://uchidayasu.cocolog-nifty.com/yulog/2007/06/post_0568.html
 お百の実母は、埼玉郡荻島村の農民・六左衛門の妹はつで、実母は末田村の佐七とある(『吾仏乃記』四四二以下)。荻島村は、現在の越谷市南荻島である。なおこれは、はるか北の羽生に荻島村があったため、南荻島としたもので、すぐ北に北荻島があるわけではない。末田村は、のちの岩槻市、現在さいたま市岩槻区なので、馬琴は隣村としているが少し遠い。
 お百は馬琴との結婚まではまさといい、明和元年五月十六日の生まれで、馬琴の三歳上になる。二歳というから生まれてすぐ養女に出された。この養母が、江戸赤城の社頭にある会田氏海老屋市郎兵衛の養女で、婿養子をやはり海老屋市郎兵衛といい、これがまさの養父である。養母ははるだが、これは馬琴が結婚した際、飯田町中坂下の会田家にいて、のち寛政七年四月二十九日に死んでいる。だが養父・海老屋市郎右衛門は、埼玉郡増橋村の妹の宅で、寛政五年十一月四日に死去している。
 ここには謎があって、なぜ市郎右衛門が飯田町から出されていたかであるが、はるとの折り合いが悪く追い出された婿養子だったと考えるほかあるまい。また増橋だが、このような地名は見当たらず、馬琴の聞き違いで、「増林」ではないか。これなら越谷市増林で、ちょうど日光街道をはさんで、西に荻島、東に増林がある。
 さらに「海老屋」とはどういうことか。馬琴が「婿入り」したにもかかわらず「会田」を名のらず「滝沢」姓にしてしまった履物店は「伊勢屋」と言われてきた。だが『吾仏乃記』に、会田氏に婿入りとはあるが、伊勢屋とは書いていない。「馬琴年譜攷」の寛政五年の項には、こうある。

 7月、耕書堂を辞去し、元飯田町なる山田屋半右衛門の家に止宿す。同家の義児半蔵は解が竹馬の友なれば、この父子の資助を得て、同月下旬元飯田町中坂下に卜居。山田屋夫妻の媒酌で中坂の履物商伊勢屋の寡婦会田お百(30歳)に入夫す。

 だが、『吾仏乃記』(六一三頁)は、これと違っている。

 七月、耕書堂を辞去りて、元飯田町なる山田屋半右衛門の家に止宿す。半右衛門の義児半蔵は解が竹馬の友なれば、この父子の資助を得て、同月下旬に元飯田町中坂下に卜居しつ。又山田屋夫妻の媒酌にて、会田氏[名はお百]を娶りにけり。

 「入夫」が「娶る」になっているのは、滝沢氏を名のり続けたために馬琴がいくらか曲筆したものだが、「伊勢屋」は、出てこない。饗庭篁村『少年読本曲亭馬琴』(明治三十二?)に既に「伊勢屋」とある。だが、馬琴の結婚についてしばしば用いられる、山東京山の鈴木牧之宛書簡のうちの「蛙鳴秘抄」にも、「会田氏」とあるのみで「伊勢屋」は出てこない。だが京山がここで触れている、町奉行根岸鎮衛が、馬琴が筆者した『耳嚢』五巻を取り上げ、十巻に馬琴のことを書いたという、そこには「伊勢屋清右衛門」とある。この、根岸肥前守がとりあげたという話は裏づけがないのだが、同時代の資料で「伊勢屋」としているのは、これのほかにない。
 馬琴の次女ゆう(祐)は伊勢屋喜兵衛に嫁入りしているが、長女さきには何度か婿をとり、そのうち吉田新六は、婿入りして滝沢清右衛門を名のっている。だが、伊勢屋とは書かれていない。ゆうの嫁入りは文化十四年なので、文化十二年に死んだ根岸肥前守が取り違えたはずはない。
 そこで『吾仏乃記』を見ると、滝沢清右衛門が死んだあと、天保九年に鱗形屋庄次郎を新たなさきの婿として次の滝沢清右衛門を名のらせたくだりに、「次の日瀬戸物町に造りて、地主伊勢屋伊兵衛に見参するに」とある。伊勢屋伊兵衛という豪商は当時二人いて、一人は日光街道粕壁の豪商、一人は鰹節商人で瀬戸物町の商人で、姓を高津、現在の「にんべん」の先祖であるが、これは後者だろう。「地主」とあるのが何を意味するのか今ひとつ定かではない。「蛙鳴秘抄」では、馬琴宅の地主を京橋鍛冶町の小林勘平としているが、これが『吾仏乃記』では、

 是よりして戯墨の潤筆をもて、旦暮に給するものから、いまだ足るべくもあらず。この故に、或人の薦めに任せて、豪家小林生の為に其家守に成りぬ。しかれども、そは名のみにて、下家守あり。はじめは大和家藤助、後には美濃屋清次郎など云者に町役を課て勤めしむ。

 とあるのがこれと関連があるとされるのだが、麻生磯次はこれを、会田家についていた土地と見なしており、以後も、裏に長屋があり馬琴がそれを差配していたと解されている。
 『研究資料日本古典文学』第四巻「近世小説」(明治書院、1983)の「曲亭馬琴」の項で、高木元はこれを勘案し、「伊勢屋」とは記していない。http://www.fumikura.net/other/bakin.html
 養父の海老屋市郎右衛門、養母はるは、牛込横寺町禅宗龍門寺に葬り、のち次兵衛、はつともにこの寺の墓石に刻してあるという。龍門寺の過去帳を調べたところ、この四人の没年月日と戒名が合致した。だが彼らの俗名は「伊勢屋」となっている。してみるとどうやら伊勢屋でいいらしいのだが、すると「海老屋」は何だったのか。 
 さて、お百の実母はつは、佐七と離婚し、江戸下谷広小路松坂屋の裏通りの下駄屋佐兵衛と結婚し、男児を産んでいる。三次郎と名づけ、成長ののち次兵衛と名のった。安永六年の生まれなので、お百とは十三歳年下である。お百を十九歳で産んだとしたら、三次郎を産んだのは三十二歳、没年は五十六歳となる。佐兵衛には先妻の子が二人あって、はつに従順でなかったこともあり、佐兵衛が死んだあと、三次郎を連れて家を出ている。はつは他家の雇人となり、三次郎は江戸京橋中通の釘屋の奉公人になり、改名した。だが寛政十二年春、主家を離れて浮浪していたが癬瘡(疥癬か)を病み、荻島村の六左衛門方で養生していたが、十二月七日、二十四歳で死んだ。どうやらはつもここに戻っていたらしい。
 『越谷市史』第一巻通史編を見ると、享保五年(一七二〇)、砂原村の組頭(年寄)六左衛門が、名主と争って組頭を免ぜられたとある。これは名主の横暴を怒ったもので、のち訴訟となっており、第三巻史料編を見ると、「砂原村六左衛門」の名は、安永六年(一七七七)の訴訟文書にも百姓総代の一人として名が見える。砂原村は荻島の西隣で、荻島は比較的大きな村なので、荻島と認識したとしてもおかしくない。つまり代々六左衛門で、安永年間のそれは、はつの父であろう。この六左衛門は、東大屋敷名主とあり、姓は会田である。会田出羽守という近世会田家始祖の三男の六左衛門家と見ていいだろう。ただし馬琴は六左衛門について「姓氏を忘れたり」としている。会田を忘れるはずがないので、これは馬琴がとぼけたのであろう。つまりお百の母は会田氏だったのであり、姉である養母も同然で、会田氏から会田氏の養女になったのであろう。
 はつは、息子の次兵衛が死んでから病がちになり、一時馬琴宅に住んでいたが、享和元年春ころ、荻島へ帰りたがったため帰し、六月九日に死んで、十日に訃報を聞いた馬琴は荻島(砂原)へ行って三日ほど葬儀の手伝いをしたとある。
もっと長く書いて論文にしようと思ったのだが、これだけであった。
小谷野敦