(断片2)

 その晩、記者の女性からメールがあって、会議にかけたが、記事にするかどうかは決まらなかった、彼女の言うことが曖昧だというのがその理由で、女性記者は、明日大阪へ出かけて、ムラヴィンスキーに取材をしてくる、と言い、もし本人が、まったく知らないと言ったら、それまでだと言った。
 私は、なお、記事になってほしいと思っていた。翌日、大阪へ向かった記者は、牧冬子に会い、それからムラヴィンスキーを訪ねた。ムラヴィンスキーは、大学構内の宿舎が住居になっていた。しかし、ムラヴィンスキーは不在で、ロシヤ人の妻と二人の子供がいて、ムラヴィンスキーに新しい愛人が出来て、自分は捨てられようとしていると涙ながらに語ったという。しかもその愛人はロシヤ人の浪速大の学生だという。
 しかし、呆れたのは牧冬子で、「私も会いに行っちゃおうかなー。せんせーい、来ましたよー、とか言って」などと言うので、こいつは、実は単にムラヴィンスキーに未練があって、ムラヴィンスキーに振り向いてほしくて、週刊誌記事にしようとしているのではないか、とすら思えた。記者も私に、牧冬子が変だと言ってきて、どうもこの子は、またムラヴィンスキーに寝てほしいとでも思っているんじゃないか、と言っていた。
 そして、帰宅したムラヴィンスキーは、牧冬子とは「つきあっていた」と言ったそうだが、それを伝え聞いた牧冬子は、「タバコを吸っていて臭いからって、キスもしてくれなかったくせに」というメールをよこしたのだが、これにはまったく、ぞっとした。
 記者は、シェリーさんも訪ねて話を聞いたようで、シェリーさんは、「こういうことは、被害者が訴えてくれないと大学は取り上げないから……」と言ったというのだが、それを伝え聞いた牧冬子は、
 「シェリーさんは私の味方だ! 就職の世話をしてもらえる!」
 と舞い上がっていて、記者を呆れさせていた。
 ムラヴィンスキーは、性の自由を主張する立場をとっていた。つまり、大学教員が学生とつきあってもいいではないか、というあたりから始まって、セックスしても合意の上ならいい、となるのはともかく、明言しないのだが、いきなり抱きつくくらいのことはいいと思っていたらしい。さらに、妻のほかに愛人を持ってもいいと思っているようだったのだが、それを言ったらまずいと思ったのか、それは言っていない。
 しかしどうやら、この日週刊誌記者相手には、それを話したようで、記者は、「あいつは狂ってます」とメールしてきて、どうやら記事にする気満々のようだった。そして翌日には、牧冬子から「記事になります!」という、喜びに満ちたメールが来た。
 それから五日ほどして、当の週刊誌が出たので、私はすぐに近くのコンビニで買ってきた。牧冬子は「A子さん」となっていたが、正確な年齢と、専攻もほぼ特定できるし、昨年浪速大で博士号をとったとあって、これではすぐに特定できてしまうのではないか、と気になったが、むろんそれは牧本人に確認したのだろう。その「地位を利用したレイプ」という言い分が前半だが、もちろん、駅まで行って戻ってきたことは、書いてなかった。酒宴の後で、友達と一緒にいるところをいきなり抱きつかれたところから、すぐに、研究室へ連れて行かれた、という書き方だった。
 むしろ後半の、たび重なる婚約破棄、離婚と再婚、セクハラの前歴などが中心だったし、私には新しい情報もあった。シェリーさんと離婚したのは二〇〇二年で、それはその頃ムラヴィンスキーが、女性を妊娠させてしまい、シェリーさん宛に、あなたが甘やかすからこんなことになったのだ、という手紙が来て、ショックを受けて離婚に踏み切り、子供はシェリーさんが引き取ったのだという。
 九八年に前のセクハラ事件があったから、それから四年も夫婦をしていたということに、むしろ私は驚いた。やはり子供がかわいそうだと思ったのだろう。
 私はブログで、「遂にムラヴィンスキー緑川の悪事が」という記事を書いたが、むろん、私が週刊誌に紹介したことは隠しておいた。また、あまり自分から動かないほうがいいと思い、牧冬子に連絡はとらずにいたが、二日たって、
 「騒がしいです」
 という題のメールが届いた。大学ではもちろん、大っぴらにではないが騒ぎになっているだろうし、多くは「とうとうやられたか」といった感慨を抱いたようである。「A子」が誰かということも、その大学院では広く知られていたようだ。
 しかし、その当時の牧冬子は躁状態で、自分はもう学問などやめて、作家になるんだと気焔をあげており、叔母の夫は有名な作家だと、その名をあげ、コネがあるからデビューできる、と豪語していた。
 私は、作家というのはコネでやっていけるものじゃないから、別にこれで学者人生が終ったわけじゃないんだから、まず博士論文を本にすることを考えなさい、と私は言った。そのうち、私は牧冬子が書いた論文を入手して読んだが、どうも論理的に書かれていない、と思った。「ニューアカ」とか「ポストモダン」以後、非論理的な論文が多く跋扈したが、これではいけないと思い、いくらか注意した。だが、それに対する牧の返答は、異様なまでに「素直でなく」、自信満々で、自分だけがこのことについて正しく考えている、という姿勢なのである。
 すると突然、海外から、学会への出席のオファーが来た、という泣き出しそうなメールが来て、私はレイプ被害を告発してもう学者は続けられなくなった、なのにこういう申し出があるということは私は優秀な研究者だったのだ、と愚痴を言い出した。
 私は、この気分の激しい転変にまったく困らされたが、記者もまた、牧冬子から友達だと思われてあれこれ言われ、困っていたようだ。そして牧は、やけくそにでもなったのか、緊張に耐えきれなくなったのか、大学へ内容証明を出して、あの記事は自分である、と言明したと言ってきた。
 その上、論文の内容に口を出したのが、いきなり気に障ったようで、雨の降る日、突然、「これ以上私と論文の話をしたいのであれば、直ちに私を、どこかの大学の非常勤かポスドク研究員に推薦してください。これは緊急要請です」というメールをよこした。私はそもそも大学の専任教員ではないし、そんな推薦が出来るはずもないし、また論文の話をしたいのであれば、というのは、指導をしている人間に対してあまりに無礼ではないか。
 私は、牧冬子が、私の本など全然読んでいないらしいことに気付いたが、それはいいとして、だんだん分からなくなってきたのが、牧がなぜ大学院に来て、そういう研究をしているのか、ということである。話を聞いていても、学問に関心があるというより、有名になることに関心があるようで、週刊誌記事になったことも、一面では、自分がマスコミに出たということに、喜びを感じているようであった。
 それでも、私がこの段階で、この女とは距離を置いたほうがいい、という判断をしなかったのは、後で思えばミスなのだが、週刊誌に紹介するということをした以上、もう少し面倒を見るべきではないかと思ったし、このまま切ってしまっては後味が悪いと思ったのである。牧冬子は、私の著書など読んでいないようだったから、関心のありそうなものを一冊送った。