太宰治と志賀直哉

 杉森久英の『戦後文壇覚え書』(河出書房新社)は、杉森が『文藝』に連載し、杉森の死(1997)によって中絶したものである。読んでいて、志賀直哉太宰治の確執の話が出てきたが、どうもおかしい。杉森は、自身が編集長をしていた『文藝』1948年6月号に載った、志賀、中村真一郎佐々木基一の鼎談で、志賀が太宰を悪く言い、それが太宰の自殺(6月)につながったと認識しており、志賀が書いた「太宰治の死」が、志賀らの同人雑誌『心』に載るはずだったのを、もともと自分が企画した鼎談から始まったことだからと、はたから奪って『文藝』に載せた、と書いている。
 しかし、太宰と志賀の対立を深めたのは、これではなく、鎌倉文庫の『社会』1948年4月号に載った、川端康成広津和郎、志賀の「文藝鼎談」で、太宰が「如是我聞」で引用して言い返しているのも、ここからのものなのである。第一、『文藝』六月号は五月半ば以降に出たはずで、それでは「如是我聞」に間に合わない。太宰がここで、志賀に雷同している痩せた俗物作家は論外だと言っているのは、川端なのである。
 記憶違いといえばいえるが、それが発端だというので『心』から志賀の原稿をとってきた、となると、当初から杉森が勘違いし続けていたのだろうか。 
(付記)念のため長部日出雄の『桜桃とキリスト』を見たら、こちらも『文藝』の鼎談が太宰を怒らせたととり、「痩せた俗物作家」は杉森自身だと解している。はてな
(付記)相馬正一『評伝太宰治』(改訂版、1995)を見たら、やはり『文藝』であった。

 以上についての正確な経緯は、生井知子志賀直哉太宰治」(『白樺派の作家たち』和泉書院)に詳しい。

 

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近ごろとんと、朝の連続テレビ小説を観なくなった。といっても、最後にある程度観ていたのは「ひらり」だから、もう20年近く観ていない。私が予備校生になった時に始まったのが「まんさくの花」で、主演の中村明美は新人で早大卒、第一回を観て清新な感じがしたのだが、後になって考えるといろいろ変で、父親は定年を迎える中学校の数学教師なのだが、関孝和に興味があるとか言っていて、数学教師だから関孝和というのもずいぶん安直で、それにまたどういうわけか中学校なのに「最終講義」があって、「π」の話をするのである。それで帰宅して、
 「お父さん、今日は何の話をしたの?」
 「ああ、パイの話さ、な」
 と言うと娘たちが、
 「ちょ、ちょっとお父さん、それはまだ早すぎるんじゃないのッ!」
 と大騒ぎするのは、おっぱいの話だと思った、という具合で、どうもへなへなしてしまう、シナリオであった。