水村美苗『本格小説』

 水村美苗の小説がまた売れているそうであるが、この人は小説を書くと必ず何か賞をとる恐ろしい人なので、今度は谷崎賞をとるのだろうか。(後記・大佛次郎賞をとった)
 さて私は前の『本格小説』(読売文学賞)を読んでいなかったので、読み始めた。文庫版で上下二冊、上巻前半は、「水村美苗」という、作家と同じ境遇の人物が、東太郎という男を知り、のちその東の知られざる過去を聞くまで、が描かれている。それが終わるころ、水村の小説論のごときものが挿入されて、「本格小説」という、『嵐が丘』の書き直しみたいな小説の序文をなす。「本格小説」というのは、昭和初年、「私小説」の対義語として用いられた言葉で、時には通俗小説にも使われた。
 「水村美苗」はとりあえず作中の語り手ということになるが、面倒なので水村とするが、自分のことを書いた小説というのはどの国にもある、と言う。その通りだ。ところがそこから、作家は自分の不幸を売りたいという欲望と戦わなければならないと来る。なぜ? そして、自分の不幸を売るものが文学と認められてしまうところで書くという不幸、と来るのである。
 これは要するに日本で私小説が栄えたという例の俗論だが、では『若きウェルテルの悩み』は、ルソーの『告白録』は、『死の家の記録』はどうか。『ブッデンブローク家の人々』や『ハーツォグ』はどうか。それらと比べて日本では私小説が栄えたと水村は言いたいのだろうが、日本の私小説は必ずしも「不幸を売る」類のものばかりではない。尾崎一雄は、志賀直哉は、不幸を売ったか。さらに、これは『嵐が丘』の書き換えだが、『嵐が丘』は、英文学の突然変異と言われていて、18世紀ゴシック小説が19世紀の真ん中に復活したものであり、困ったことに日本ではこれを論じたがる女性がむやみと多い。
 しかして、現代の日本では、通俗小説が純文学として通用してしまうという不幸のほうがはびこっているのであり、久米正雄が言ったように、ゾラもトルストイも高級な通俗小説ではないかと言いうるし、水村が往復書簡を交わした辻邦生にしてからが、結局は高級な通俗小説家だったのではないか、ということを江藤淳は言ったのである。
 ならば、かくのごとくに論を進めるのであれば、「私小説」「本格小説」「新聞小説」と書いてきた水村は、今度は「通俗小説」を書かなければ、論としては完成しないのではないか。
 水村はここで、人は他人の幸福よりも不幸を読みたがる→だから作家は、不幸を売る欲望と戦わなければならない、と書いているのだが、だとすると、人は推理小説や恋愛小説や冒険小説を読みたがる→だから作家は…ということになりはしないであろうか? 作家は、人が読みたがらないものを書くよう努力しなければならないのか?