むかし、米国在住の女性日本文学研究者が、自分は昔アメリカへ留学してヘンリー・ジェイムズとかをやろうとしたら、君は日本人だから日本におけるヘンリー・ジェイムズをやれ、と言われて嫌だった、という話を、ひとつ話のようにしていた。いつもこの話だなあ、と思って鶴田欣也先生に言ったら、「そうなんだよ、何かちらちら胸元を見せるだけでね、ボディーを見せろボディーを」と言っていた。
 鈴木貞美は、純文学が形骸化している、と言うのだが、それを言うなら、具体的にどう形骸化しているのか言ってほしいもので、古井由吉とか黒井千次とか津島佑子とか、そういうのは鈴木的にはダメなのかどうか、それを言わなきゃダメだろう。それでいて辻原登はどうかと訊けばいいといい、紫式部文学賞では多和田葉子に授与していて、その形骸化ってのはいったい何のことであるか、ボディーを見せろボディーを、と言いたくなるのである。
 大塚英志日文研客員教授になっているが、まさか鈴木が呼んだんじゃなかろう。小松所長が妖怪研究で呼んだのだろう。なんだか私には日文研の共同研究のほうが形骸化しているような気がするがね。

 もう一年くらい前の鈴木との論争についてまとめると、こういうことになる。
 「日本文学史は、民衆文学を含むという点で、西洋文学史と違う」と鈴木貞美は言う。人はそこで、いわゆる「大衆文学」のことかと思う。すると、そうではなくて、近世のもので、芭蕉西鶴近松から、黄表紙狂歌滑稽本人情本のことだと言う。そしてこれを、権力者の弾圧に耐えてさまざまに工夫を凝らしたものだと称賛し、西洋にこれに当たるものはないという。
 ないなら、文学史に入っていないのは当たり前だが、恐らくアストンの『日本文学史』(1899)で、近世の町人文藝を「popular literature」としているのが気にかかっているのだろう。1890年の、三上・高津の『日本文学史』を見ても、近世までだが、選ばれている作品は、さほど現代のものと変わらない。ただ、東大系の日本文学史というのが正統的なもので、ほかに芳賀矢一のものがあり、戦後は市古貞次の編纂になるものがある。加藤周一の『日本文学史序説』は英訳されているが、むろん国文学者のものではなく、近世については、町人文藝はあまり扱わず、思想を重点的に取り上げている。あと明治期には早稲田の五十嵐力のものがあり、東大の藤岡作太郎のは、平安朝のものだけが正式に刊行されていて、藤岡が早世したため終わっているが、講義用のものは当時刊行されていて、近世後期の洒落本、滑稽本などは扱われていない。
 しかし、1890年の文学史を問題にするのだと言っても、その後も大枠が変わっていないのは、さして評価を大きく変える必要を認めなかったからだろう。しかし芳賀は、『源氏物語』を一応古典の大作としながら、それにしてもこんな軟弱で猥褻なものが日本の最大の古典だというのは情けない、と書いているし、アストンなどははっきりと、町人の道徳意識は低かったとしている。
 大して、明治期には大きく扱われたのが、次第に小さくなっていくのが馬琴で、これは儒教的理念に則った道徳的に正しい物語だから評価されたのが、逍遥流の、人情を重んじる立場から、株が下がっていき、かえって人情本や洒落本などの株が上がるが、東大でこれらを専門にする人がいない、という程度には、まだ軽蔑されている。
 ただ法政大の広末保、松田修などの左翼近世文学者は、周知の通り、民衆のエネルギーが好きだから、こうした猥雑、低俗なものをかえって評価した。鈴木もその流れに棹差しているのだが、現在の近世文学の専門家で、これらを民衆文藝として称揚する人はあまりいない。
 では外国に民衆文学はないのか。といえば、あるに決まっている。シナにおける「水滸伝」「三国志演義」は、講談が発展してまとめられたものだし、『アラビアンナイト』も民間説話の集成で、『カンタベリー物語』や『デカメロン』といった小話集もたくさんある。それからシェイクスピアがいる。これについては、民衆演劇だとする小田島雄志福田恒存が批判したのだが、王から下層民衆までが観客であったというのがだいたいのところである。
 鈴木説では、政府に弾圧されてあれこれ工夫をしないと「民衆文学」ではないらしいのだが、それはまったくの左翼イデオロギーで、しかも古い。沓掛良彦先生などにも、いくらかこういうオールド左翼めいたところがあって、それで大田南畝を書いたりする。
 『戦後思想は日本を…』のほうを見て、鈴木が、近世民衆文藝をまったく日本独自の、西洋より進んだものとみていることが分かった。なぜ、かくも鈴木は無理をして、日本の独自性を言おうとするのか。
 鈴木は、元来が全共闘の左翼である。もとは小説家、文藝評論家で、湾岸戦争反戦署名にも加わっている。しかし、鈴木が勤務した国際日本文化研究センターは、中曽根康弘の肝煎りでできた、右翼および保守派の研究所である。日文研は、時おり、左翼的な人も入れることで、批判をかわそうとする。だが、落合恵美子、佐藤卓己などは、京大へ去り、稲賀繁美などは東大比較出身だから左翼ではないが、根に左翼的なものがあるし、井上章一学生運動をしていた。
 組織に属すると、おのずとその色に染まる。陰に陽に、合せることを強いられる。しかも、私は左翼嫌いの、初代所長梅原猛が牛耳る紫式部文学賞の選考委員を鈴木が務めていることに少々驚いた。
 『日本の文化ナショナリズム』(2005)を出した時、「鈴木もナショナリストになったか」と言われて悲しかったと言っているが、この本は、文化ナショナリズムを批判する本ではないのだから、それはやむを得ない。しかもそれで何かをふっ切ったように、鈴木は、『日本人の生命観 : 神、恋、倫理』(2008)、『戦後思想は日本を読みそこねてきた』といった本を出すようになる。
 梅原猛は、九条の会に入っている。これが、私の常々言う「戦後民主主義への相乗り」現象で、平和主義こそ日本の伝統で、天皇がその象徴だという、左右折衷の現在におけるあり方である。鈴木はさすがに九条の会には入っていないが、無理を重ねて、日本文化の独自性や優越性を説くようになる。だがその文章はしばしば歯切れが悪い。知識量の多いのは分かるのだが、政治的に右往左往している。
 つまりは、左翼が日文研に適応しようとして、そうなってしまったのだと見て差し支えあるまい。昭和の戦争が激化し、プロレタリア文学が壊滅した時、多くのプロ作家は転向したが、その際、「農民文学」へ走る者が少なくなかった。
 天皇に忠実な農民の称揚は、戦時政府が奨励したことだからであり、そのような形で左翼作家は最後の両親を守ろうとしたのである。幕末の勤皇の志士を「草莽」と位置づけるのも、その一環である。やはり転向作家の林房雄が、『大東亜戦争肯定論』を書いた時、幕末の志士たちの誠実が分からないのかと叫んでいたのも、林が元左翼だからである。
 そして、近世の幕府の弾圧にあった文人を称揚するのは、また都合がいい。幕府は明治政府には敵扱いだからである。明治政府に反逆した者たちでは、具合が悪いのだ。石川淳が辿ったのも、近世の反体制派をほめたたえることによる、斜に構えた反権力の姿勢である。
 幕府に弾圧されたから偉いという見方を左翼的なものとして退けていたのは、芳賀徹である。しかし、近松西鶴芭蕉は別に弾圧されてはいない。八代将軍吉宗が心中もの浄瑠璃を禁じたのをそう思う人もいようが、近松の人気作はむしろ時代ものだった。世話浄瑠璃の高評価が始まるのは、明治以降であり、それは明治期文人がそこに「恋愛」らしいものを見出したからである。
 鈴木がどうもおかしくなってきたのは、新書をむやみと出すようになってからだが、これがまたあまり出来がよくない。『日本人の生命観』(中公新書)でも、芭蕉西鶴近松を礼賛して、シェイクスピアは植字工の綴りがまちまちだった、と言っている。持ちネタか。
 そういえば、阿部次郎を出したとき、あの頃阿部は左翼だったとか言っていたが、谷崎も近世文藝を女性蔑視、恋愛蔑視で町人文藝だから調子が低い、と言っているのだがな。