松浦寿輝と寺田透

 『文藝春秋』三月号の巻頭随筆に、松浦寿輝が東大を辞めるの記を書いている。1969年に大学紛争の際、やはり東大駒場仏語の寺田透が辞めて、大学は文人には向かないと書いたり言ったりしたのだが、それを松浦は、いい気なもんだと思い、今も思っているという。寺田は当時54歳くらいか。しかし、寺田はある程度文名があったから、辞めても食っていけるからいい気なもんだ、というのでは、松浦にそのまま跳ね返ってくるし、それどころか、今よりはよほどましだったとはいえ、当時の寺田が文藝評論のようなものを書いてどの程度食って行けたかは疑わしくずいぶん苦労したのではないかとも思う。そこは、売れる翻訳を確保しておいて辞めた中野好夫(ただしのち中央大教授)や竹山道雄とは違う。
 松浦は、では自分が辞める理由はというと寺田とさして違わないことになるのだが、と言い、「大学人」としてはもうやっていけないくらいで、駒場でもこのところ50代で死ぬ人が多いと書いている。さらに、自分は作家・詩人となるのだがアイデンティティは学者であるといったことを書いている。何だか江藤淳みたいだ。どうしてこの人は、『文春』の巻頭随筆を書くと、何ともイヤミなことを書いてしまうのであろうか。

(著書訂正)『現代文学論争』105p、「三十年一月、劇団四季によって」→「三十年五月」