関裕二氏に答える

 関裕二という人の『日本人はなぜ震災にへこたれないのか』(PHP新書)に私のことが出てくるというので、図書館で借りてきた。『日本文化論のインチキ』に触れたもので、122p以降にあった。『お江戸でござる』を観たり、田中優子の解説を聞いたりして、ああ、江戸はいいなあと思う愚を指摘したところである。(後記・関氏はいちおう私の論旨自体には賛同している)。引用があって、徳川時代には朝起きて湯を沸かすところから始まる、電気もないしガスもないのだ、想像してみるがいい、と私が書いたところだ。そこで関は、「「不便は不幸だ」「だから、江戸時代の人々が幸せであったとは思えない」と言っている」と言うのだが、私はそんなことは言っていない。提言命題では言っていないのであり、『お江戸でござる』を観て、ああいいなあと思っている人たちに問いかけているのである。だから、もしその人たちが、ああいいと思うよ、電気もガスもない、結構じゃないか、と言ったら、じゃあお前、電気もガスもなしで生活してみろ、と言うのである。これは田中優子にも言いたい。それに私は、徳川時代の「日本人」などというものはいないと言っている。大名に生まれるのと貧民に生まれるのとでは全然違うのである。ただまあ、この関という人は、なぜか学歴不詳だし、トンデモ本の書き手らしいので、あまり面白くはない。この本の表題にしてからが、へえそれじゃ震災にへこたれた国ってのがあるんですか、どこですか教えて下さい、ってなものだ。各国メディアが日本人の冷静さを称賛した、って、まあ先進国ならこんなものでしょ。各国メディアなんて、お世辞で言ってるに決まってるじゃん。関さん、学歴教えてください。低学歴でも不幸とは限らないのですから。

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グレアム・グリーン伝『内なる人間』(シェルデン)の翻訳を本腰を入れて読み始めたら、ずいぶん訳文が硬くて読みづらい。訳者は山形和美(1934- )という筑波大名誉教授の英文学者だが、ずっと女だと思っていて、男だと気づいた。それで、やはり山形が訳している『グレアム・グリーンと第三の女』(キャッシュ)を図書館で借りてきたら、こっちはさらにひどい。まるでダメな大学院生が訳したみたいである。それで訳者あとがきを観たら、シェルデンの伝記から断片的に引用されているのだが、ここは普通なら要約するところなのに、これまた、バカな学生がやるみたいに、そのまんま引用してある上、自分の言葉で書いた部分へ来ると、意味が分からない。たとえば本文であるが、

 しかし私は、グリーンが自分の妻に辛く当たりたいと思っていた、と私たちは考えるべきであるとは思わない。一九四七年の四月の終わりまでには、グリーンはヴィヴィアンと二人の結婚生活の重大な問題について話していたに違いない。おそらく、グリーンは空気を清浄にしたい、もしくは、もっとありそうなことだが、ヴィヴィアンとキャサリンが友人になることを欲していただけだろう。

 さらにあとがきだが、キャッシュというのがこの本の著者で、それが批判を受けたというところ。

 その前にそれ以外の批判を簡単に見てみよう。キャッシュのこの作業は、種々の酷評を被った。キャッシュはそれらに対して防御態勢を整えた。キャッシュが苦労して集めた資料から、キャサリン労働党系の国会議員やIRAの役員や、カトリックの僧侶たちと性的関係を持ってきたことを事細やかに論証しても、そのようなことはみな先刻承知していることで、キャッシュの作業はほとんど無駄である(イアン・ハミルトンの批判)やキャッシュの筆法は支離滅裂であるとも言う、もう一人の批評家はキャッシュの唱える人生と芸術の分離に関して文句を付けている(デイヴィッド・セクストン)。

 うすらぼんやりと意味は分かるのだが、()の前後がおかしいのは原文のままである。まず大抵の一般人は苦労して読んでうすらぼんやりと意味をとるだろうが、英文学者ならみな、原文で読もうと思うだろう。
 (小谷野敦)