進歩しない

 若いころ読んで分からなかった文学作品が、歳とって読んでよく分かったといったことを言う人がいるが、私にはそういうことがほとんどない。トルストイの作品は結婚するとよく分かる、と書いたことはあるが、それは「全然分からなかった」のが分かったというのではなくて、ある程度面白かったのが、よりよく分かったという程度に過ぎない。『アンナ・カレーニナ』にしても、リョーヴィンの話は最初から面白かったが、本筋であるアンナの話は、未だに面白くない。
 『雪国』を高校生の頃読んで分からなかった、とも書いたが、それはのちには分かって面白くなったという意味ではない。ここでセックスしているということは分かったが、別にそれで面白くなったわけではない。むしろ、読めば読むほど欠点が目につく。驚いたのは『罪と罰』で、二十歳のころ読んで面白くなく、25歳くらいでもう一遍読んだら、やっぱり面白くなかったことで、この場合も、面白くない理由、欠点が目についた。『ぼく東綺譚』はその24歳くらいで読んで面白くなく、37歳くらいで読み返したらやっぱり面白くなかった。意地を張っているのではなく、何とか今度は面白く読もうと思って読んでいるのだが面白くない。何という進歩のなさであるかと思う。漱石の作品なんか、読めば読むほど欠点が目につく。
 だいたい私は、一つ小説を二度読んだりすることはめったにない。何しろ読むべきものが現代ではあまりに多すぎるからで、みんななんでそんなに時間があるのかと思う。  
 『ミスター・グッドバーを探して』という小説があって、これは若いころ映画を観たが面白くなかった。しかし、当時米国でベストセラーになったそうで、昼は教師、夜は男あさりをする女を、女の作家が金のために全部想像で描いたという。当時、私小説嫌いの柴田錬三郎は、直木賞の選評でこの小説がものすごく面白かったと言い、空想のほうが事実より面白いのだと言ったが、今では誰も読まない。そんな話は今ではごろごろしているからである。私も少し読んでみたがつまらないのですぐ放り出した。だいたい柴錬の小説というのは、柴錬立川文庫のほかは、あまり面白くないのだ。
 それで思い出したが、柴錬に『美男城』というのがあるが、私ははじめタイトルを見てホモ小説かと思った。実は昭和30年代前後には、美男剣士ものというのが流行っていたのである。だいたい、『大菩薩峠』にしてからが美男剣士だし、『宮本武蔵』では佐々木小次郎のほうが美男だが、『鳴門秘帖』とか「若さま侍」とか、主役の剣士は美男が相場だったのである。
 私は美女には興味があるが美男には興味がない。剣豪小説を読むのは男だろうから、昔の男はみなホモだったのかと思うほどである。