極論を言わないと売れないのか

 アリエスの『<子供>の誕生』は、近代になって、純真無垢な子供という幻想ができた(これを「A」とする)という説なら良かったのに、近代以前に「子供」という概念はなかった(「B」)という極論に走ってしまった本だ。丸谷才一の『忠臣蔵とは何か』も、「仮名手本忠臣蔵」という浄瑠璃ができる過程で御霊信仰が働いた(A)とだけ言っておけばいいのに、赤穂浪士討ち入り事件そのものが御霊信仰で、しかも徳川綱吉という「悪王」の「王殺し」だ(B)とか言い出すからトンデモになってしまうのである。
 サイードの『オリエンタリズム』にしても、西洋人が東洋について書いたものには、幻想や偏見があるものが多い(A)という程度でとめておけばいいのに、西洋人が東洋について書いたものは全部いかん(B)と言うから変な本になったのである。しかしこれらは、極論Bを打ち出したから売れたのやもしれない。こうなると厄介である。柄谷行人の『日本近代文学の起原』も、そういうところがある。言文一致運動以前にも、勝小吉の自伝とか、式亭三馬滑稽本とか、口語体で書かれたものはあるが、先日『鳩翁道話』『松翁道話』などを読んだら、18世紀から口語体はあったことが分かってとっぴんはらりであった。で、その言文一致論を批判した鈴木貞美が、自分では、純文学の語が定着したのは1961年だなどというトンデモを言い出す。私は近ごろ、講談社文芸文庫に入っている川端康成文芸時評』を読んで、鈴木の説が真っ赤な偽りであることを確認した。
 あとカントーロヴィッチの本が新しく出たのだが、その代表作『王の二つの身体』ってものすごく分厚い本だが、言っていることはごく簡単で、まあ論証に分量を使ったんだろうが、あれは全部読む必要はないものである。フクヤマの『歴史の終わり』もそうで、まあ何も知らない高校生なら通読して勉強になるだろうが、大人の知識人が通読するのは時間の無駄だ。
(以下削除。台湾人であった。よく調べて書けよ俺)