「乙女の港」は中里恒子作

 2009年に実業之日本社というもともとの版元から、川端康成少女小説『乙女の港』の復刻本が完全復刻本と新装版の二冊組という豪華本で出たのが、今度は文庫になるという。
 しかし、『乙女の港』は川端の作ではない。芥川賞受賞前の主婦作家だった中里恒子の代作である。このことは、1980年代の35巻本全集が出た時に公開された、川端と中里の書簡ではっきりした。その時は中里は存命だったが、誰も取材はしなかったらしく、87年に死去、89年に中里宅から『乙女の港』の原稿の一部(25枚くらい)が発見されて、ようやく論文が出るようになった。いちばん精力的に研究してきたのが、札幌大学名誉教授の大森郁之助(1932-)で、川端の少女小説に関する著作も二冊ある。
 さて、『乙女の港』は1937-38年実業之日本社の『少女の友』に連載されたもので、川端はそれ以前もそれ以後も、少女向け雑誌に書くことが多かった。『少女倶楽部』『若草』などで、『乙女の港』の公表を受けて『少女の友』に連載された『花日記』も中里の代作である。その後の『美しい旅』は川端自身の作だが、この頃の川端は代作が多く、『歌劇学校』は平山城児の母・近江ひさ子の代作(これは平山『川端康成 余白を埋める』に詳しい)。のち講談社学術文庫に入った『小説の研究』は伊藤整の代作であることが、これも伊藤との書簡で分かるし、「竹取物語堤中納言物語とりかへばや物語」の現代語訳は、「竹取」は誰か別の人、あと二つは塩田良平がやったことが平山著に書いてある。
 だから『乙女の港』を、川端作として復刊するのは疑問なのだが、中里が書いたのを川端が手を入れたり、筋についてアドヴァイスしたりしていたのも書簡から分かるので、合作ということにしているようだ。
 さてしかし、復刻版には、鹿島茂の解説と、内田静枝(1969- )の解題がついており、いずれも、中里の代作であることには触れている。しかし鹿島の解説には疑問がある。『乙女の港』は、当時の女学校における「エス」の三角関係を描いたものだが、鹿島は、エスといえば妹から姉へのファンタジーとして存在するはずなのに、ここではむしろ妹をめぐる三角関係になっている、として考察を加えている。
 その中で、「おそらく川端は、中里の原稿そのままに女学校の現実の反映として描いてしまったのでは、『妹』主導になってしまい、読者の共感を得ることはできないと判断したのでしょう」と書いている。しかし、中里の原稿は僅かに見つかっているだけで、川端はその筋を大きく変更はしていない。鹿島はフランス文学者だから、草稿が見つからない段階でこういうことを言うのはいけないと分かっているはずだが、専門の仏文学ではないから、勝手に空想したのだとしか思えない。
 「エス」という主題について、川端が指示したのか、中里が独自に考えたのかについては、大森も判断を保留している。しかしそれまでの川端の作品歴から見れば、これは中里独自のもので、筋立ても中里のものだと私は思う。実は川端はこのころまでは、長編通俗小説が下手で、唯一『女性開眼』くらいが成功作だったのだが、『乙女の港』の萌芽のようなものはまったく見出せない。
 つまり『乙女の港』は、中里恒子作と表記すべきものなのである。中里は藝術院会員で全集もある作家だが、しかし川端ほどの名声はない、だから川端作として出したい、ないしは、川端の著作権がまだ生きているという問題もあるのだろうが、これを川端作として出し続けてはいけないと思う。鹿島の解説にも、メインのストーリーは川端だと、何の根拠もなく論じる小細工が見える。これでは「テクスチュアル・ハラスメント」ではないか。(なお大森の論文はCiniiであらかた読める)。