ホモソーシャルについて

 前川直哉の『男の絆』について私が書いた一点のアマゾンレビューが時おり話題になるので、いちおう説明しておく。
 上野千鶴子の『女ぎらい ニッポンのミソジニー』もそうだが、なるほど、こういうことは一般にはまだ知られていなかったのかと思ったもので、こうした話は、学者(文学研究者、社会学者)の間では、1990年代にさんざん議論されていたことで、上野著にも前川著にも、私を含めそれらの人は、別に新しいものは何も見出さなかったであろう。
 特にいずれも、物故したイヴ・コゾフスキー・セジウィックが『男同士の絆』の序文で言ったことをそのまま信奉している。なおセジウィックのこの本が、邦訳される前、おそらく日本で一番早く紹介したのが、私の『夏目漱石を江戸から読む』(1995)なのだが、まあそれはいい。
 セジウィックはその序文で、ホモソーシャルという概念を打ち出している。ただこの概念をセジウィックが作ったというわけではない。セジウィックは、ホモソーシャルはミソジナスであるが、ホモセクシャルはそうではない、という堂々たる図式をここで提示したのである。
 しかし、セジウィックのこの本は、英文学の研究書であるため、ディケンズ作品の分析などがその後に来る。それで、英文学者以外は、全部読まずに済ますことになる。ところがセジウィックは、考察を進めるにつれて、ホモソーシャルホモセクシャルの間の区分は曖昧であることに気づいてしまう。そしてまた、ホモセクシャルもまた、時にはホモソーシャル以上にミソジナスである、ということが、90年代に知られるようになって、この図式は今では崩壊しつつあるのである。
 前川は、近代日本における「恋愛」概念の形成に、佐伯順子の論を用いているが、佐伯は、『美少年尽くし』(1992)で、徳川時代の野傾論などを論じつつ、男色者がいかに女性嫌悪的であるかを示したのだが、自らそのマチズモに同化してしまい、男色とは侍的であり日本的であるなどと、途方もないことをしまいには言ってしまっている。あとで本人は、男色を美化しすぎたと反省してはいたのだが、前川などは、その辺に目配りが効かなかったようである。
 上野のほうは確信犯で、実は男の同性愛がいかに女性嫌悪的であるかをよく知っているのだが、まあそのせいか、よく上野は、異性愛中心主義者だという非難にあっている。しかし、男性同性愛の女性嫌悪の傾向は否定しがたい事実なのであって、おそらくは前川も、戦略上、そのことをなるべく言わないように書いたのであろう。