ギャツビーの構造

 こないだふと、『グレート・ギャツビー』とか『ロード・ジム』とか、悲劇的な最期を遂げた人間について、近くにいた人間が語るという小説構造が、福音書と同じであることに気づいた。漱石の『こゝろ』もそうで、あれはかねて福音書に似ていると言われている。私はギャツビーもロード・ジムも別に感心しないのだが、おそらくキリスト教徒にとっては、その語りの構造が福音書を思わせる点で、既にギャツビーやジムをキリストに見立てる準備ができるのだろう。日本もまた、潜在的キリスト教徒が多いから。

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http://konokensuke.weblogs.jp/blog/2011/01/%E8%BF%BD%E6%82%BC%E5%B1%B1%E5%86%85%E4%BF%AE.html
私が小浜逸郎の人間学アカデミーで講師をした時、最後の飲み会で私にからんできたのが、この山内という人。私が宮沢賢治が嫌いだと思っていたらしい。まあ嫌いだが。私の本を書店で探したが見つからなかったと言い、小浜が、ネットで買えばいいじゃないですか、と言っても、そういうのは嫌だ、書店で現物を見て買いたいと言い張り、私が、東京堂書店へ行けばまとめて置いてありますよと言うと、「東京堂、ありません!」とえらい剣幕で言い(直後確認に行ったらやはりあった)、私の講義にケチをつけ、私は職人の子だから、もらったカネだけの仕事はするんです、それでおまんま食ってるんだから、と執拗にからむから、私は遂に中座した。酒に酔ってからむ奴がいたら、私は席を立つことにしているし、そのことは事前に小浜に言ってあった。
 その後で中島ギドーがこの講義へ行ったら、誰だか知らんが私の時はひどかった、と言っていたようだが、この山内ではないのか。筋の通った叱責なら甘んじて受けるが、こういう理不尽な酔っ払いは本当に困る。まったく厄介な人だった。