http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/what's%20new/2011/koyano5012.pdf
 西鶴近松芭蕉を「民衆文学」とするのは、単なる鈴木氏の「意見」に過ぎない。なるほど北村透谷は、近世の、遊里を中心とした文藝を批判しつつ、それが民衆の文藝だからというので、尊重した。そこに透谷の矛盾がある。透谷は自由民権運動の闘士だったからである。
 しかし最終的には、西鶴近松芭蕉は、その後藝術性が高いとされて文学史に入り、黄表紙、洒落本、人情本は、当時ほかに文藝らしいものがなかったので入れたと、これは中村真一郎が言ったことである。私は透谷の、民衆の文藝だから評価するという姿勢を、イデオロギー的でくだらないと思っている。鈴木氏は狂歌を挙げたが、洒落本や人情本はどうなのか。いやそれより、浄瑠璃や歌舞伎はどうなのか。鈴木氏は、もしかするとあまり歌舞伎など観ない人なのではないかと私は思っている。(狂歌を詠んだりしていたのは武士階層である。芭蕉近松は、出身は武家である。曲亭馬琴柳亭種彦武家だ)。 
 透谷その他の人が、近世のこうした文藝を「民衆文藝」とした、ということと、鈴木氏がそれらを「民衆文藝」と呼ぶこととは、別のことである。なのにその二つを混同し、自分でこれらを「民衆文藝」と規定しておいて、それが入っているから日本文学史はユニークだと、現時点の日本文学史を指して言っているのである。おかしいではないか。
 鈴木氏は盛んに「polite literature」「popular literature」と言うが、では英語以外ではどうなのか。西洋に「純文学」に当たる語が見つけにくいのは、大衆文学が大衆文学であることが自明のこととされているからである。
 鈴木氏の『成立』の冒頭を、私は問題にしているのだが、鈴木氏はそこをずらし、とぼけ続ける。あそこには、現在私たちが見ている日本文学史に「漢文」が入っているのがユニークだ、と書いてある、としか思えない。鈴木氏は、日本では知識人は多く漢文で書物を書いてきて、それが膨大な量にのぼるから、それを無視しては国文学は成り立たない、と書いている。そして私は、訓読というもの、仮名というものが発明されたから、日本文学は多彩な発展を遂げたのであり、それは漢文中心だった朝鮮にはないものだと思う。鈴木氏は、朝鮮文学史が現在、漢文作品を軽視していると書いているが、そうではなく、強烈な中華思想に災いされて、漢文訓読のようなものを発達させることができなかった朝鮮文学史が、もともと貧弱なものなのだと考える。
 前にも言った通り、だから日本文学は、西洋の近代国家つまり英国、フランスなど、古代を持たないような国々よりも、長くかつ豊かな文学を持っている、というなら、理解するのだ。もともと日本文藝が豊かだったから「日本文学史」がこのようなものになったのであって、「日本文学史」の編成は、日本文藝が多彩であることの結果でしかない、と言っているのだ。
 戦後の「大衆文学雑誌」というのは、『講談倶楽部』とカストリ雑誌と、あとは『キング』あたりだろうか。鈴木氏は、雑誌の編成の上で三つに分かれたと言いつつ、自分でも認める通りはしょっているから、具体的にどの雑誌なのか分からないのである。また図表に書いてある、と言うが、その図表には、
 「純文学」 「中間小説」 (大衆文学)
 とある。「」と()と、なぜ分けたか。分けた上で、本文では、中間小説が大衆文学に入れられてしまうと言っているのだから、誰も三分割だと思わないではないか。
 あと私は『知恵蔵』の記述を見て、誰もそれ以前が三分割だなどとは思わないと言っているのであって、あれは誤解を招く書き方だと思う。
 それとまだ疑問があるのだが、戦前にも中間小説に該当するものがあったのか、それは『オール読物』に載っていたのか、それとも戦後になって出現したのか。鈴木氏は「雑誌の編成も」と言いつつ、なぜか具体的な雑誌の名を出したがらない。それは、「中間小説雑誌」と「大衆文学雑誌」の区別が実ははっきりしないからではないのか。「中間小説誌」と銘打った雑誌があったのか。
 星新一が「セキストラ」でデビューしたのは1957年、初の短篇集を出したのは61年で、その61年に直木賞の候補になっている。「長いこと候補にもならなかった」と証言する人がいたら、それは記憶違いであろう。なお小松左京が最初の単行本を出したのは63年、直木賞候補になったのも同年。筒井康隆は初の著書が65年、直木賞候補は67年、半村良のデビューは71年、SF『黄金伝説』で直木賞候補になるのは73年、田中光二のデビューは74年、直木賞候補は75年である。そういうことを確認するために「直木賞のすべて」を貼りつけたのである。もちろん、半村の市井もの以外、受賞していない。受賞しない恨みが、いつしか「候補にもならなかった」という誤伝になったのだろう。(なお和田芳恵の間違い)。
 鈴木氏が、「大衆文学」をpopular literatureの訳語とすべきではない、というのは、ご意見として拝聴する、以上のものではない。先に述べた通り、鈴木氏の「民衆」「大衆」の区分には、イデオロギー的なものがあるからだ。
Yves Olivier-Martin, Histoire du Roman Populaire en France de 1840 a 1980 (Albin Michel, 1980) という本がある。これはフランスの、ウジェーヌ・シューなどの通俗小説を扱ったもので、通俗文学のことをsou-literatureといった語で表したり、世間から通俗として批判されてきた歴史を扱っている。
 むろんこれは1980年の本である。私が日本も西洋も同じと言っているのは、文学史村井弦斎や渡辺霞亭、その他の「家庭小説」、菊池幽芳から、西村京太郎、赤川次郎、果ては陣出達朗、山手樹一郎は入らないという意味においてである。また西洋にも「中間小説」めいた領域はあって、マーガレット・ミッチェルパール・バック、ストウ夫人などいろいろ、扱いに困っている作家たちがいる。
 鈴木氏は、概してプロレタリア文学などの方面からものを見るので、『真珠夫人』が通俗小説だというのを否定するのだが、ブルジョワ作家の間でははっきり通俗小説で、菊池も『半自叙伝』でそう書いているし、小林秀雄も『受難華』を、通俗小説としては素晴らしいという文脈で褒めている。
 1935年に菊池が「純文藝」に芥川賞を、と書いたのは前に紹介した。規定に「創作」とあった理由を、川口則弘氏に書いてもらったが、それについて鈴木氏はどう考えるのか。純文学の語が安定していなかったというのはいいが、少し鈴木氏の書き方は、針小棒大に過ぎないか。
 
 あとこれは鈴木氏は先刻ご承知だろうから一般読者のために掲げるが、1927年に刊行が始まった改造社の『現代日本文学全集』つまり「円本」の一覧である。

現代日本文学全集 改造社
第1篇 明治開化期文学集
第2篇 坪内逍遥
第3篇 森鴎外
第4篇 徳富蘇峰
第5篇 三宅雪嶺
第6篇 尾崎紅葉
第7篇 広津柳浪集,川上眉山集,斎藤緑雨
第8篇 幸田露伴
第9篇 樋口一葉集,北村透谷集
第10編 二葉亭四迷集,嵯峨の屋御室集
第11篇 正岡子規
第12篇 徳富蘆花
第13篇 高山樗牛集,姉崎嘲風集,笹川臨風
第14篇 泉鏡花
第15篇 国木田独歩
第16篇 島崎藤村
第17篇 田山花袋
第18篇 徳田秋声
第19篇 夏目漱石
第20篇 上田敏集・厨川白村集・阿部次郎集
第21篇 正宗白鳥
第22篇 永井荷風
第23篇 岩野泡鳴集 上司小剣小川未明
第24篇 谷崎潤一郎
第25篇 志賀直哉
第26篇 武者小路実篤
第27篇 有島武郎集・有島生馬集
第28篇 島村抱月生田長江中沢臨川集 片上伸集 吉江孤雁集
第29篇 里見とん集 佐藤春夫
第30篇 芥川竜之介
第31篇 菊池寛
第32篇 近松秋江久米正雄
第33篇 少年文学
第34篇 歴史・家庭小説集
第35篇 現代戯曲名作集
第36篇 紀行随筆集 附:「春」「嵐」
第37篇 現代日本詩集,現代日本漢詩
第38篇 現代短歌集,現代俳句集
第39篇 社会文学集
第40篇 伊藤左千夫集,長塚節集,高浜虚子
第41篇 長谷川如是閑内田魯庵武林無想庵
第42篇 鈴木三重吉森田草平
第43篇 岡本綺堂長田幹彦
第44篇 久保田万太郎集 長与善郎集 室生犀星
第45篇 石川啄木
第46篇 山本有三倉田百三
第47篇 吉田絃二郎集 藤森成吉集
第48篇 広津和郎葛西善蔵宇野浩二
第49篇 戦争文学集
第50篇 新興文学集
第51篇 新聞文学集
第52篇 宗教文学集
第53篇 小杉天外集,山田美妙集
第54篇 巌谷小波江見水蔭集 石橋思案集 菊池幽芳集
第55篇 小栗風葉集 柳川春葉集 佐藤紅緑
第56篇 田村俊子野上弥生子中条百合子
第57篇 小泉八雲集,ラーファエル・ケーベル集,野口米次郎集
第58篇 新村出柳田国男吉村冬彦斎藤茂吉
第59篇 賀川豊彦
第60篇 大仏次郎
第61篇 新興芸術派文学集
第62篇 プロレタリヤ文学集
 現代からみても、さほど違和感がない。通俗小説は、菊池幽芳、柳川春葉などが申し訳程度に入れられていたりするが、この頃既に、今言う「純文学」のキャノンは確立していたのだ。
 どうも鈴木氏は、何とか通説を覆そうとして失敗しているようにしか見えない。「純文学/大衆文学」の二分法は、まあ明治末期あたりに生じて、昭和初期に確立した、しかしていつどこでも、「ハイブロウ/ロウブロウ」の区分はある、というあたりでいいのではないか。
 まああと、書評を読んで見当をつけるというのは普通のことで、鈴木氏はなんで片山杜秀か読売新聞に訂正を申し入れないのであろうか。
 さらにまた、師匠や同僚に異論を唱えるにしても、鈴木氏の場合は「意を汲み取って」というのが、俺に基本的に逆らわず、という意味だから困るのである。それならたいていの学者がそうである。では誰か日文研で、梅原猛の『水底の歌』は間違いである、という発表をしたのか。
 私はかつて日文研中西進研究会で、中西氏が「近ごろ大江健三郎キリスト教に行っているが、日本人としてどうなんですかねえ」と言い、ツヴェタナ・クリステヴァに「どうですか」と訊いたらツヴェタナが「私は神道ですから」と言ったので驚いて、後で人に話したら、二人の人が「そうしないと生きていけない」と行った。まあその手の話はこれまでいくらも書いている。世代の問題ではない。
 むろん、私に、批評の領域における戦略はある。もし、私小説こそが純文学である、という風潮が支配的であったら、私も、私小説こそ純文学であるなどと強弁しないのである。しかるに今では、西村賢太が、「私小説をエンターテインメントに昇華した」などと言われている。これではまずい、というので純文学を擁護しようとしているのだが、なんでそれが鈴木氏に分からないのであろう。それがもしかすると、世代の問題で(といえばもうプロ文学の立場からガンガン言っているところが全共闘世代なのだが)、『ドグラ・マグラ』なんかを称揚して、通俗視と戦ってきた過去の記憶でものを言っているのだろうか。私には、奥泉光のように、『ドグラ・マグラ』の亜流みたいなものばかり書いている人を見ていて、もううんざりしているのだが。
 なお鈴木氏が私に対して、「リテラシーが低い」とか「捏造」とか言っているのは、すべて事実ではない。誹謗中傷の類である。
 鈴木氏は、ことがらの軽重を計るということができない。新興藝術派がとか、新潮社系の作家がとか、全体としては小さな出来事を、あたかも大きな出来事のようにとらえているだけである。たかが「中間小説」の一語で、1961年まで繰り下げてしまうのも、その一つである。ただ、私がプロレタリア文学に冷淡なのは事実で、円本にも、プロ文学は入っていない。いったいに昭和期の文学論争は政治的なものが多いのだが、なぜか京都にいる人は、これは論争ではないと言いたがるようだが、この論争は、プロ文学(とその末流)を絶対無視したくない鈴木氏と、無視してもいいんじゃないかという私との、政治的立場の違いということで納めることはできぬものだろうか。まあ、左翼というものは、自分の立場が絶対だと固執するもので、鈴木氏のやり方には、ボルシェヴィズムとかスターリニズムに似たものを感じる。