http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/what's%20new/2011/koyano511.pdf
 私は、西洋文学で大衆文学が文学史に入っていた、などとは言っていない。日本でも同じことで、日本文学史は特殊ではない、と言っているのだ。明治期の家庭小説も新聞小説も、文学史からは排除されている。それだけのことだ。また、漢文は訓読されているから日本文学史に入っているだけで、日本人がシナ音読みをしていたわけではない。
 鈴木氏が「中間小説」を間に入れるという考えであったとは、今初めて聞いたことで、著書を見てもそんなことは書いていない。しかもおかしい。直木賞についてははっきり「大衆文藝」と言われている。むろん直木賞が、中間小説と大衆文学とどちらに与えられてきたか、といえば中間小説であることは確かだ。だが、戦後の雑誌が「純・中間・大衆」に分離したというのは、具体的に何をさすのか。鈴木氏は先に、戦後の『オール読物』について論じたことはない、と言っている。『小説新潮』『小説公園』が中間小説誌なら、大衆小説誌は、『講談倶楽部』のようなものを言う、というわけか。
 鈴木氏の文章を見てみよう。

日本の小説は、雑誌の制度上でも、「純」「中間」「大衆」に三分割されていた。その三区分を無視して、「純文学/大衆文学」の二区分が大手をふって、まかりとおるようになったのが、1961年以降なのだ。そこでは「中間小説」も「大衆文学」のうちに組み込まれた。小谷野君は、この二分法に立ち、戦後、長いあいだ、「純」「中間」「大衆」に三分割されていたという「事実」を認めようとしない。世間一般に通用していた観念など「なかった」というのだ。それこそ「無茶」ではないか。これも他者がいないのと同じ。

 「三分割されていた」というのは、鈴木氏の認識である。そして、1961年以降「まかりとおるようになった」という。その後で「世間一般に通用していた観念」と言うが、「純・中間・大衆」に分割するのが世間一般に通用していたという、その根拠はどこにあるのか。しかも、「中間小説」という語が現れたのは、戦後、1949年頃のことである。平野謙が「中間小説のことを忘れていた」と謝った、と鈴木氏は書いているが、第一線の批評家が忘れてしまうような通念とは、何であろうか。たとえばWikipediaでは、「中間小説」について、こう書いてある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%96%93%E5%B0%8F%E8%AA%AC
 Wikipediaは信用できないと言われるが、これはよく書けているほうで、この記述には全然異論がない。だが鈴木氏の言うのは、1949年頃から一般化した「純・中間・大衆」という区分が、61年には消え去ったというのである。たった12年である。また鈴木氏は、星新一などSFは「大衆文学」なので直木賞をとれなかった、と書いている。しかし私の知る限り、SFは大衆文学であって中間小説ではない、という文言は見たことがない。しかも星も赤川次郎も、直木賞の候補にはなっているのだ。しかし、候補にもならない小説というのがある。たとえば1965年に始まった集英社コバルトシリーズのような少女小説である。
 しかしその後「大出を振ってまかりとおるようになった」のであれば、『オール』『小説新潮』などは、大衆文学雑誌と見られるようになったということか。ではそれ以前の大衆小説雑誌はどうなってしまったのか。
しかも、城山三郎三好京三は、文学界新人賞をとってから直木賞をとっている。三好など、同じ作品で、である。今なら考えられず、今はまた別の固定化が99年以後進行中である。だが、「大出をふってまかりとおる」なら、そんなことはありえないはずだ。

20世紀後期になって、ようやく研究が進んできた部類の”popular literature”は、「文学史」からずっと排除されていました。それは紛れもない事実です。”polite”と”popular”の二分法があったということと、そのあいだの境界線が安定していたかどうか、とは、まったく別の問題です。小谷野君は、その区別も出来ないのですか。

 「安定」などするわけがないのである。たとえばデュマを排除するフランス文学史もある。安定していないということと、なかった、というのとは、全然別のことである。今でももちろん、安定はしていない。しかし私は繰り返して言うが、明らかに大衆文学の側である小説(たとえば西村京太郎の推理小説)はあるし、明らかに純文学である小説(ジョイス古井由吉など)はある、ということだ。安定していないと言うならば、「純・中間・大衆」だって全然安定はしていない。
「アカデミズムが排除したか、排除しないか、という問題でしたか。それで議論がくいちがったのですね」と、小谷野君が認め」
 いや、鈴木氏は上で「安定していなかった」と言っているのであって、私に言わせれば、鈴木氏こそが、「アカデミズムが排除していた」というのを、区別はなかったと書き間違えた、と言えば、それで済むことである。
菊池寛真珠夫人』は「文壇小説」に入れられていた。」
 違います。あれは「通俗小説」です。前田愛久米正雄の『破船』すら、『主婦之友』に連載されたからというので、通俗小説だと言うが、私は違うと思う。
「そのころに用いられはじめた「純文学」という語は、没落しかかった「プロ文」系統を排除していた。」
 これは1935年頃のことだが、久米正雄は、プロレタリア文学を「マッス」の文学と言ったというので、青野季吉から論難されているが、35年の文藝懇話会賞では、プロ文学系の島木健作が、二位になったのに松本学の意向で外されている。また井伏鱒二直木賞をとった時菊池は「井伏君を大衆文学だと認めたのではなく、井伏君の文学に、我々は好ましき大衆性を見出したのである」と書いている。
 安定しないのは、当時も現在も同じことで、しばしば「芥川賞直木賞の境が怪しい」と言われるが、そういうことは井伏鱒二梅崎春生の昔から言われてきたことだ。
 それとも、私にはそれは自明のことだが、世間には誤解がある、ということを鈴木氏が言いたいのであれば、それは分かる。
 知恵蔵の井上氏の文章を読んで、誰も、それ以前は三分割だった、などとは思わないだろう。少なくとも17世紀以降、いかなる国でも「高級」「低級」という区分はあった、ということを鈴木氏が認めるなら、それはいい。宮本百合子私小説を主とする作家なので、純文学だと私は考えている。 
 なお「下司の勘繰り」などと言われるが、アカデミズムに生息していれば、師匠の言うことには逆らわない(えない)、同僚はかばう、というのが常態である。あまりカマトトはやめてもらいたい。
 ところで先日来紹介してきた、近ごろの海外通俗小説研究だが、それらが、作品を再評価したから研究する、という姿勢をほとんど常にとっていることに、私は疑念を抱いている。尾崎秀樹もそうだったが、私は、存在するものは研究の対象にしてしかるべきだと思っている。まだ鈴木氏に届いていないかもしれないが、『久米正雄伝』はそういうつもりで書いたのである。この点、同意してもらえたら幸いである。
 「通俗・大衆小説」については、外国語に訳す際にあまり困難はないのだが、「純文学」は難しい。一般には米国でも、フランス語を使ってべルレットルなどと言うようだが、これも安定していない。
(付記)
 間抜けな話なのだが、私はなぜ鈴木氏が「民衆」と「大衆」の違いにこだわるのか分からなかった。実は今、『日本の「文学」概念』をようやく入手して、氷解した。ここには、

…いわば自然発生的な「民衆文学」のもつ、エロティックな、あるいはグロテスクな魅力やナンセンスの精神を汲み上げつつ、かつ、洗練の志向をもち、そして為政者の側からの度重なる弾圧に耐えることによって、表現形式が複雑化し、類型に頼りつつも、新たな趣向を絶えず工夫し、また、マルチメディア的に、ジャンル・ミックス的に展開する。

 とあって、なーんだ、左翼的な民衆幻想か、と気づいたのである。それに対して「大衆文学」は、資本主義体制の下で、民衆をだまくらかすためにブルジョワ作家どもが書いたものだ、ということになる。
 まことに迂闊な話で、私はいつも言う通り、左翼経験がないから、「民衆」といえば、民衆幻想のことを意味するのだと気づかなかったのである。私は徳川期文藝については、阿部次郎が「権力をもちえない民衆のひねくれた文藝」だという評価と同じなので、これでは話がかみ合わないのも当然だと思った。ないし、こういうことの書いてある本では、売ってしまったのも当然か、と思う。
 なおこの「概念」では、戦後、純文学雑誌と中間小説誌に分かれた、とあって、三つに分かれたとは書いていないのだが、「成立」でも二つに分かれた、とある。三つに分かれた、というのは、今突然言い出されたことである。
 それから、私は、作家を「純文学作家」「大衆文学作家」に分けるべきだと主張したことなど、一度もない。ただ、あの作家はむしろ通俗が多くなっているのではないか、といったことは言う。
(付記2)
 余計な手間を省くために書いておくが、私が先ごろ、「食えないから大衆小説(通俗小説)を書くのだ」と書いた時鈴木氏は、「それは作家は本来純文学を書きたいという前提ですね」と書いたものだが、それと「民衆文学」「大衆文学」の区別はどう整合するのであろう。『概念』によれば、鈴木氏は民衆文学を「自然発生的」としているが、だとすれば「大衆文学」は、大衆に迎合して書かれたことになって、矛盾するのではないか。
 次に鈴木氏は、日本では西洋より早く民衆文学が発達したとしているが、ではバフチンが論じたラブレーとそれに先行する民衆文化はどうなるのであろうか。「エロティックで、グロテスクで、ナンセンスで」ってそれはラブレーの特徴そのものではないか。ないし、ドイツの『阿呆物語』を挙げても良い。私は徳川期文藝よりも、ラブレーやグリンメルスハウゼンのほうがずっと優れた文藝だと思う。
 もう一つ。鈴木氏は、SFやショートショートは大衆文学と見なされ、長いこと直木賞の候補作にもならなかった、と書いているが、星新一直木賞候補になったのは1961年、星がほぼ専業作家として地盤を固めた時のことである。これでも「長いこと」なのか。それとも、海野十三のことでも言っているのか?
あと『落窪物語』は、その当時ほかにも多く書かれたシンデレラ型のロマンスで、『源氏物語』は、性愛のもたらす不幸を描いたサタイアであるから、前者を通俗、後者を純文学と言っても、さしたる問題はあるまい。ただ、もし世間にその類の、あらゆる文藝は純か大衆に分けられると信じている人がいたら、それはそれで問題である。また西鶴については、『好色一代男』のみは極端に文章が難解で、それ以後の作はそうでもない。これは区別すべきであろう。 
(付記3)
 それでようやく、鈴木氏が、元左翼だか現左翼だかスターリニストだかの性根で、プロ文学派が、芥川であろうと菊池の通俗長編であろうと、ブルジョワ文学と指したことを問題にしているのだと分かったわけだ。しかし、私はプロ文学派でも何でもないし、『真珠夫人』を通俗でも大衆小説でもない、などというのは、プロレタリア文学史観みたいなもので、一般性は持たないのである。
 さてしかし、日本で特に「純文学/大衆文学」の二分法が通念として強いように思われるとしたら、それは、芥川賞直木賞のためであろう。ほかの国では、私の知る限りこんな風に組になった文学賞というのはない。三島賞と山周賞だってそれにあわせて出来たもので、要するに鈴木氏は、芥川・直木賞が悪い、と言えばいいだけのことである。