もてるスパイ

 ジョン・ル=カレの『寒い国から帰ってきたスパイ』を読んだ。実は私は、高校時代に、新聞のコラムで、『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』を読んだ記者が、途中までは退屈で、何でこんなものが名作扱いされているのだろうと思っていたら、後半に入って伏線が生きてきてすごく面白かった、と書いていたのを覚えていて、87年に文庫版が出たあとで読んだのだが、その退屈なところで力尽きたというか、あまりに複雑なので分からなくなってしまい、かといって改めて読み直しても面白いような気がしなかったので、分からないままになっている。
 だいたい私は、伏線を読み説く力が弱いのだが、謎解きをされると「そうか」と思ってそれきりになってしまうという傾向がある。こないだ『僧正殺人事件』というのを読んだが、ひたすら面倒くさく、はいはい、それでどうなるの? という感じで、あんな地図だの時系列表だの、やたら多い登場人物表を見て、途中で、犯人は誰であろうか、などと考えるのがバカらしくてならないのだ。だから、『刑事コロンボ』は好きなのである。
 『寒い国…』のほうは、さほど分かりにくくなかった。ところで今『ティンカー…』のアマゾンレビューを見たら、翻訳がひどい、というのがあった。菊池光なのだが…。まあ確かに、読みにくかった記憶も、ないではない。菊池は、ヴェテランなのに、どうも翻訳が賛否両論である(物故者)。
 もっとも、『寒い国…』の、訳者宇野利泰の解説には首をかしげた。63年に出たこれが世界的ベストセラーとなったのは、なぜかと言って、それまでの009みたいな超人的なスパイとは違う、人間的なスパイが描かれていたからだというのだが、そんな無茶な。だってグレアム・グリーンの『第三の男』はその十年以上前だし、コンラッドの『密偵』だってあるのに。
 まあそれはいいが、またこのスパイが、図書館で身をやつして働いていると、割と美人なのになぜかしょぼい図書館員の女と出来てしまうのが、まことに通俗的である。
 その昔、『1984年』とか、『われら』とか、SF小説とか読んでいて、なんでまあこの主人公どもには、必ず似たような恋人ができるのであろう、と思ったものだ。だいたい大状況があって、ヒロインは美人だが不幸で、主人公を熱烈に愛して、大状況と戦う彼を支えるのである。要するに「セカイ系」である。
 したがって私は『1984年』を通俗小説と呼んで憚らないのであるが、それを言えば大岡昇平の『武蔵野夫人』もまあ通俗である。大西巨人の『神聖喜劇』も、一歩間違うと通俗なのだが、恋愛のところはまったく通俗である。 
 だいたい、全体主義国家とか、大状況の中に放り込まれたら、釣り合いをとるために恋愛は通俗になるのである。まあもっとも推理小説の探偵は、恋愛をしないものと相場は決まっている。ハードボイルドなら、妻は子供を連れて出て行って、新しい若い恋人ができると、これまた相場は決まっている。
 ところで「ジョン・ル=カレ」というのはフランス風筆名だが、これは発音しづらい。「ルカレ」とためらいなく言ってしまえばいいのだが、どうしても「=」が気になる。「アメリカ横断ウルトラクイズ」で、この作家名が回答だった際、回答者は焦ってもいるし「ジョン、ル、カ、レ」などと切って言っていた。