鈴木貞美『「日本文学」の成立』の冒頭にあるのは、こんな文章である。

 本書は、「日本文学史」などに用いられる「日本文学」という概念が明治期にはじめて成立したこと、それが国際的に実にユニークな「人文学」であることを明らかにする。ヨーロッパやアメリカの「人文学」は、自国語の文献のみを対象とする。そして、その内に宗教学をふくまない。それに対して、日本の「人文学」は、日本語だけでなく、漢文の書物、さらに神道儒教、仏教の文献をも対象とする。これは中国や韓国と比べても、ちがう。

 「人文学」といったら、日本の「文学部」でやっていることだから、おかしい、と言ったら鈴木氏が逆ギレしたのだが、仮に「日本文学史」でいっても、これは成り立たない、ということを私は言っている。
 『ケンブリッジ版イギリス文学史』というのがある。1970年に英国で出され、77年に邦訳が出たものである。これを見ると、口絵にホッブズ肖像画が掲げてある。本文も、神学者、哲学者、歴史家、エドマンド・バーク、ベンタムなどが挙げられている。まさに広義の「文学」である。
二年前まで東大仏文科の主任だった塩川徹也はパスカルの専門家で、いま独文科主任の松浦純はルターである。これは何も日本だからではなく、マルティーニ『ドイツ文学史』にもルターはちゃんと扱われている。
 西鶴近松の話が脇へ逸らされてしまったが、そもそもは鈴木氏が、日本文学史には民衆文学も入っていてそれが西洋と違うと言ったことである。それが、黄表紙、洒落本、滑稽本のことならまだ分かる。これらは、その当時文学(polite literature)らしいものがほかにあまりなかったから入れられたのである。しかし、西鶴近松芭蕉がなぜ民衆文学かと言うと、町人が読んだからだという。しかしそれなら、西洋でも、18-19世紀の「小説」の読み手の多くは、市民、特にブルジョワである。日本でも、富裕層のうちのインテリである。
 さて今日の分である。
http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/index.html
 読めば読むほど、この冒頭の文章が否定されているようにしか、私には思えないのである。

白文を書くことは、どんどん専門化してゆきますが。道真も貫之も漢詩をつくり、漢文を書きました。定家も。江戸時代には、また、白文の読み書きが目標にされました。鷗外、漱石の時代には白文を書けることが課題とされていました。戦前の中学生には、白文を読めることが課題でした。これは「訓み下す」ことのできる能力が問われたのですが。訓点なしで読むことに習熟すると語順も日本語順に置き変えなくても、読めるようになります。発音は別ですが。

 鈴木さんが問題にしているのは、近代になって編成された文学史ではないのですか。その中に漢詩漢文も入っているというのは、訓読の習慣があったからだろうと言っているのですよ。訓読がなければ、あれほど多くの漢文漢詩が書かれたはずはない。逆にヨーロッパでは、ラテン語が基準文明だから、トマス・モアの『ユートピア』や、ニュートンの論文やらはラテン語なわけで、19世紀ロシヤの貴族はフランス語で話したりしたわけです。ただ、漢字をひらがなに変換して漢字仮名交じり文というのを発明したのは確かに世界にも例のないユニークなことですが、それを「バイリンガリズム」と言うと、どうも大言壮語の気味がありはしませんかと、また漢字仮名交り文のユニークさはかねて言われていることなので、「言語ナショナリズムを採用しなかった」とするのは、大げさだと思います。
 『うつほ物語』の例は、「蔵開 中」の冒頭部だと思いますが、これは仲忠が帝の前で俊蔭の父の漢詩を、初めは訓読で、続いて音読するところですね。
 『古事記』『日本書紀』が文学史にあるのは、ギリシャ神話が文学であったりするのと、特に変わらないと思います。
 したがって、冒頭の文章については、
・宗教 西洋で神学部が文学部と別にあるのはその通りだが、キリスト教文学(バニヤンやミルトン)は文学部でやるし、他宗教については宗教学科がある。日本でも仏教系の大学では仏教学部があるし、『古事記』が文学でも、それはギリシャ神話などと同じで、特に日本文学はユニークではない。
・哲学・史学 19世紀以前の、学問の細分化が起こる前については、西洋もこれらを文学史に入れていて、同じく。

 なお糸圭秀実は、1990年の鈴木-小田切論争の少し前に、純文学という語を必要としているのは、村上春樹吉本ばなななど、純文学と通俗小説の中間にいる作家だと書いた。それは、その時点では正しかったが、その後、だいぶ状況が変わった。明らかに通俗小説とみられるものを書いている作家が、出発点が芥川賞だったといったことのせいかどうか、純文学作家としてふるまうようになったからである。
 昔は、松本清張にせよ宇能鴻一郎にせよ田辺聖子にせよ、芥川賞作家であっても、大衆文学のほうへ移ったと見られたら、そう分類されたし、本人もそれでよしとした。水上勉などは複雑で、はじめ『フライパンの歌』でデビューしたが、売れず、推理小説で人気が出て、持ち上げられたために、大岡昇平の批判を浴びた。その後「雁の寺」で直木賞をとり、直木賞選考委員になったが、純文学的だと認められて、芥川賞選考委員に移った。
 さて、1980-90年代以降、純文学は実に売れなくなっていく。それで、文藝出版社もなかなか出さなくなり、文藝雑誌も、娯楽色の強いものを載せるようになっていく。そこで笙野頼子が激怒したわけだが、私も笙野も小田切も、純文学を保護しなければいけない、と思っているのである。だから、純文学-大衆文学という区別をとっぱらえ、といった議論が出ると、それは純文学の衰退をもたらすのではないかと思って抗戦に出るわけである。

田切さんは、亡くなる前に「山本周五郎を読んで感心した」と書いていた。半分くらいでしょうが、わたしの主張を理解したと思っています。

 しかしそれは「大衆小説の中にも優れたものがある」という発言の範囲内であろう。なお、海音寺潮五郎に関しては、私のミスでした。すみません。
 芥川の「邪宗門」について、というより、私は、芥川がかなり「歴史小説」を書いたのに、芥川賞は、戦前において鶴田知也桜田常久、高木卓(辞退)、戦後において五味康祐くらいしか、歴史小説に与えられていないことに、関心を持っています。
 久米正雄を持ち出すのは、伝を書いたからですが、しかし久米は、自分ではおよそ下らない通俗小説を書きながら、私小説こそ文学の本道だと言い続けたのだから、キーパーソンです。しかし作家が通俗小説を書くのは生活のためです。鈴木さんの書き方というのは、そういう側面を切り捨てている感じがしますね。

わたしの言うこととは、個々の作品に、その質に対する評価をすべきであり、それと「純文学」と「大衆文学」という社会的に通用している雑誌や文壇による区別とは関係ないということなのです。なんで、それがわからないのかな。

 それは多分、通俗作家が純文学作家として遇されている現状、純文学作家とされる人が通俗小説を書いて賞を貰ったりしている現状を、私が憂えていて、鈴木さんが関心がないからではないでしょうか。純文学は売れないので、区別をとっぱらうと、滅びてしまう、つまり書いても出版社が出してくれないという状態になります。鈴木さんは、現代の小説などどうでもいいのか、ないしは、売れない純文学など滅びてもいいと思っているのでしょうか。こないだ阿刀田高が、純文学などという呼称をなくしてしまえばいいと書いていましたが、もしかして、純文学/大衆文学という区分のために、よい大衆文学がちゃんと評価されていないと思っているのでしたら、それはまったく20年前の認識です。今や純文学作家がこぞって犯罪小説めいたものを書いて、出版社や世間から褒められる時代なのです。大岡昇平は、そんなに通俗小説がいいなら、それだけでやってくれと言いましたが、今そんなことを言ったら、本当に純文学など出してもらえなくなります。文学研究者だってそうで、今はみんな、通俗作家である村上春樹を論じたりアニメを論じたりして、存在意義を認めさせようとしているわけです。  
 なお『新小説』については、途中で変容していることは知っています。なかんずく、泉鏡花などは、文体で純文学作家扱いされていたわけですから。『若草』は、表紙は竹久夢二ですが、一概に少女向けとは言えませんが。

果して戦後の『オール読物』が、大衆小説を排除していたか、というとかなり疑問で(小谷野)
わたしは、戦後の『オール』を対象として論じたことはありません。(鈴木)

 これは「「第二次大戦後、文藝雑誌が「純文学」雑誌、「中間小説」雑誌の二種に分かれ、それ以外の文藝が大衆小説(文学)と呼ばれた」という文のことを言っているのですが、とすると『オール』は「それ以外」になるのですか。
 大宅壮一の文章は、私は『恋愛の昭和史』で引いているから知っています。ただ私が言っているのは「忠直卿」とか「恩讐の彼方に」などのことです。

文学は純文学として価値のあるものがいいかそれとも多方面から批難のないものがいいのか、大よそは分ってゐるが考えなければならない。  

 中条百合子がここで言っている「純文学」は「文学」のことでしょうか。「純文学として価値のあるものがいいか」「それとも多方面から批難のないものがいいのか」と迷っているわけで、ユリの処女作「貧しき人々の群れ」は、迷った結果、前者をとり「純文学」の道を行ったということです。むろんユリは「大衆文藝」を書くかと迷ったわけではないが、かといって透谷の言う「純文学」とも違う、過渡期的用法として挙げたのであります。
 またついでに言うと「大正期の『私小説』は情痴に狂う中年作家のセルフ・パロディーに満ちていた」(『成立』163p)というのは、どうでしょうか。近松秋江は途中で結婚してやめているし岩野泡鳴も死んでいる。むしろ大正後期の文藝雑誌は、身辺雑記私小説がやたら多かった、というのが事実でしょう。 

 私が分からないのは、鈴木さんは20年前からこういうことをやっていて、ひたすら日本近代を掘り下げているけれども、なぜそこに、外国との比較がないのかということ。シナはある程度やっているけれども、西洋の文学史を検討するとか、西洋における純文学と大衆文学はどうなのか、といった作業がないことです。たとえばサガンはフランスではどういう位置づけなのか、といったこと。
 なお、私が、柳田や折口を日本文学とか批評が対象にする時にあきたりないのは、彼らのどこが正しくてどこが間違っているかをはっきりさせず、個人崇拝に陥っている人が多いからです。逆に松浦寿輝の折口論なんて意味不明ですが。
 ヴェネディクト・アンダーソンではなくてベネディクトでしょう。
(付記)
 「大衆小説」が20世紀の大衆社会を前提に、というところで一応念を押しておくが、百万部売れたら大ベストセラーだが、それでも日本人の1%、一冊を三人が読んでも3%である。要するに、本当の大衆(マス)は、本なんか読まないのである。テレビと映画でお腹いっぱい。
(さらに付記)
 鈴木氏『『文藝春秋』とアジア太平洋戦争』(2010)には、やたらと「久米正男」という誤植だか誤字だかが多いのだが、久米については鈴木氏はノーマークらしく、久米の妻の妹が永井龍男夫人であることも知っていたかどうか。