広瀬和生著について

 広瀬和生『落語評論はなぜ役に立たないのか』(光文社新書)についてのアマゾンレビューがえらく波紋を呼んでいる。私としてはかねてこうした、現代の落語家を生で聴かなければいけないという最近の風潮について疑念を抱いていたので、一年以内に新書判くらいの落語論を書いて立場を明確にするつもりである。よってウェブ上では、一切とは言わないが基本的には何も言わないことにする。なおアマゾンレビューで、広瀬が過去の名人の録音を否定しているわけではない、と反論している者がいたが、広瀬は繰り返し「現代の落語家の誰を聴けばいいか教えるのが落語評論家の役割だ」と断言していて、過去の名人について評論することを否定している。
 なお広瀬著の、立川流を排除した寄席がつまらないという論点には異論はないのだが、攻撃している「落語評論家」が誰なのか明らかでない点が良くない。もしかしたら弘文出版の『落語』あたりに書いている、あまり知られていない人なのか、ないしは京須偕充なのかもしれないが、いずれにせよ、相手が誰だか明らかにしないまま攻撃するのは、デマゴーグの手法であると明言しておく。
 私はむろん、談志師匠は名人だと思うが、志の輔志らく談春まで、円生クラスの名人と一緒にするのは違和感があるし、落語の現状を語るなら、既に落語の下地となっている、関東大震災以前の風俗が遠い昔のものになってしまったことから来る、必然的な「時代遅れ」について明らかにすべきだと思う。仮に現代の新作落語が面白いと言ったとして、ではなぜそれは和服に扇子、手拭である必要があるのか。