内田ジュ先生の最終講義

 『文學界』4月号に内田ジュ先生が60歳で定年前に神戸女学院大を辞めるというので最終講義が載っている。何たる華々しさであろうか。
 何か、さしさわりのあることも書くなどと言っておいでだったが、別にそんなものはない。温情で学生を卒業させてやったとかいう話があるくらいで、この程度で「さしさわりがある」のであれば、私に大学教員が務まらないのも無理はないと思った。
 が、ジュ先生は21年前、というから39歳の時ですね、神戸女学院に就職するにあたって、傷害事件の類を起こすことを懸念し、なるべく家から出ないようにした、と書いておられる。自動車通勤し、家と大学と道場を移動するだけだった、という。人通りのあるところを歩くと喧嘩沙汰になるからということのようだが、梅田や三宮には月に一回くらいしか行かないというが、それだけ行ってりゃ十分でしょ。それにインドネシアへも旅行しているし、飛行機での移動なんて特にカリカリしやすいものが平気で出来るんだから、何かねえ。
 「私のように圭角のある人間が」21年も務められたのだから、とあるが、ジュ先生が圭角があるなんて初めて知ったぜ。ブログにどんなコメントがついても返事しないような「大人」なのに。ジュ先生が圭角があるなら、私なんか狂人ではないか。その通りだと言うやつもおろうが、それじゃ×野×子とか佐×亜×を形容する語がなくなってしまうではないか。
 まあ、それはいいのだが、何とも大学では優しくされた、という風に書いていて、赴任するなり恫喝を受けた私が読むと自分がかわいそうで涙ぐまれる。ホントーに神戸女学院ってそんなにいいところなのか。まあ、武道家だから、からんでくる奴もいなかったのだろう。

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「学問的検討」など不要なのだよ佐藤亜紀。もしあのプロットが、『鏡の影』と『日蝕』にしかない、というのであれば、そのことを指摘できる最適任者はファンタジー研究家の小谷真理だ。ある二つの作品に類似がある時、それがそのジャンルによくあるものの一つに過ぎないのか、それら独自のものであるのか、というのは古典文藝、比較文学などの研究でも重要なことだ。ところが、佐藤の与党である小谷が、そのことにまったく触れない「解説」を書いたわけで、このことによって、独自のものではない、ということは逆に証明されているわけだ。Q.E.D.

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食料調達のため雪の中近所のコンビニへ行ったらなぜか『週刊現代』が売り切れていて、『週刊ポスト』を見たら、日本ペンクラブ会長阿刀田高が一頁使って「純文学」という呼称をなくせと吠えていた。何でも、五木寛之井上ひさしの評価が低いと嘆き、新聞の文藝時評は文藝雑誌に載った「純文学」だけだと言うのだが、そりゃ五木や井上は売れるし、書評も出るのだ。純文学は売れないから保護しているのに、何を言うておるのじゃろう。最後に、純文学という言葉をなくせば、日本文学は世界に向かってはばたくだろうと言うのだが、まったく意味不明である。
 だいたい、文学者が「言葉をなくす」などと言うこと自体きてれつである。私は意味ないのでペンクラブに入っていないが、こんな老害を会長に選んだペンクラブは解散したらどうか。