三浦直彦のこと

 江藤淳の岳父である三浦直彦について、塩谷昌弘氏から論文「江藤淳(江頭淳夫)「長谷川潔論」と岳父・三浦直彦」の抜き刷りを送っていただく。『日本近代文学会北海道支部会報』13号、2010年5月である。これによると直彦は戦後、1951年から57年まで銀座サエグサ画廊を経営し、57年より名古屋短期大学学長をしたという。『南仏の旅』(1966、黎明書房)という著書があるというが、NDLはもとよりWEBCATなどでも所蔵は確認できない。学長は72年まで務めたようだ。
 しかし、謎なのが、関東州局長の職が1947年までとなっていることで、三浦の妻子、つまり江藤夫人とその母親は命からがら満洲から帰国したようだが、その間三浦本人はどうしていたのか。一般的に、関東州局長などという職にあって逃げ遅れれば、漢奸裁判にかけられて死刑、ないしシベリア送りは避けられない。 
 塩谷氏は、江藤は祖父や父母については語っているが、と書いているが、前に書いた通り、父親についてもあまり語っていない。
 今度『工学部ヒラノ教授』を出した東工大名誉教授の今野浩の『すべて僕に任せてください 東工大モーレツ天才助教授の悲劇』で、白川浩という、43くらいでがんで死んだ同僚のことを書きつつ、江藤の奇行についても書いている。鎌倉に移住してすぐ、鎌倉市職員が12時前に抜け出して昼食をとっていると週刊誌に書いたとか、学科主任を引き受けるにあたって手打ち式を行い藝者をあげて請求書を出席者に送ったとかいうのが、一ダースはある奇行の、ましなほうだ、という。私も鎌倉へ行った時、市民税の支払いを拒否していたという話を聞いた。
 しかし今野も変わった人のようで、Fという哲学専攻の万年助手が、誰も読まない本を自費出版して配っていて、地方の私大に教授として転出し、三年後に学長になった、助手から三年で学長! と書いているが、これは藤川吉美のことだ。ホワイトヘッドをたくさん訳していて、九州女子大学長を務めており、別に変な人のようには思えないのだが、まあ何かあるのだろう。
 主人公の白川は、何でも引き受けて過労からガンになったというのだが、見舞いに行った今野は「また2人でガンガンやりましょう」と言ったことになっている。受けを狙っているのだろうか…。何か奇人、奇人を語るという感じである。