福田と坪内に

『SPA!』の対談で、福田和也坪内祐三が私の悪口を言い合っている。福田は、私が東大の紀要に「俺は東大を出て留学もしているのに、なぜ福田などが文藝評論家なのか」と書いた、載せる東大も東大だと思った、などと言っているが、そんな事実はない。思い当たるのは、『比較文学研究』(これは東大比較文学会が出している学術雑誌であり、紀要ではない)に「外国で日本文学を勉強するということ」を書いた(1993年、63号)。その冒頭で私は、福田の『「内なる近代」の超克』について疑念を表明しているのだが、これは『男であることの困難』に入っている。見れば分かる通り、福田が言うようなことは書いていない。書くわけがない。しかもその後、私は95年の比較文学会で福田と話している。それからあと、『谷崎潤一郎伝』を書いて福田が絶賛したらころっと態度が変わった、と言っているが、それは事実である。しかし、実際にはその間に、福田との対談を断ったということがあった。それはむろん、福田が「右翼」か左翼か分からないという、いつも言っている通りの理由である。だが、『谷崎伝』を出した2006年頃には、もう福田の右翼的言説を本気にする人もあまりいなくなっていたので、お礼の葉書を出したのである。それはまあ、普通のことだと思う。
 次に坪内は、『文学研究という不幸』で、坪内は金持ちの息子だから大学教授にならないのだろう、と書いたのをとらえて、自分は父親の借金で実家が競売になっていることを書いていると言い、私を、他人には厳しいけれど自分はいい加減だと言っている。
 坪内の父は元ダイヤモンド社社長・坪内嘉雄だが、確かに99年に世田谷区体育協会副会長をしていた時に、公金を借り出して返していなかったことで問題になったり、2001年に恐喝容疑で書類送検されて不起訴になったりしている。しかし、こういう地位のある人というのは、融通が利いたりするものだし、坪内ほどに人気のある評論家なら、早稲田で教授に迎えてもおかしくない、そうならないのは断っているからだろうと思ってそう書いたのである。私は坪内の自室の写真というのを見たことがあって、それが結構広い和室に書籍がたくさん置いてある部屋だったので、何かと裕福なのだろうと(むろん自分と比べて)思い、奥さんの稼ぎが多いのだろうとまでは思わなかったので、そう書いたのである。もっとも私は概して、物書きの人の収入について、どうしてそんな金があるのだろうと思うことがある。亡くなった黒岩比佐子さんにしても、東大のそばに住んでいて、古書を買いまくるということが、なぜあの程度の執筆量で出来たのか、未だ疑問なのである。
 もっとも坪内のほうは、私が『靖国』を批判した時から遺恨に思っているようだが、私はたびたび坪内には自著を送っているが、あちらからは送ってこなくなった。料簡が狭いのではないか。それと、『美人好きは罪悪か』の連載中に、坪内夫人が美人だと書いたら凄い勢いで当人が抗議してきた、という事件もあり、私は鎮静してから、「まったく悪意はなかった」というメールを当人に送ったが、梨のつぶてであった、ということがあった。
 「他人に厳しく自分に」というのは心外で、誰でも間違えることはあり、私は間違いがあったら訂正している。それなら私なり編集部なりに言ってくればいいのである。それに「想像力が欠けている」と坪内は言っているが、この件に関しては「調査不足」と言うべきではないのか。
それと、坪内は前回に引き続き、『母子寮前』を批判して、「自分を客体視できていない」と言っている。これにはいくらでも反論できる。
1、私小説批判の紋切り型であり、「蒲団」以来、私小説はそういう批判に遭ってきた。近松秋江についても同じことを思うのか、どうか。『蕁麻の家』はどうか。
2、大森望が、東京駅で子供が帰りたがったなどという誤読をしたように、飛ばし読みして見落としているのではないか。単行本で言えば55、69pに、弟による主人公への標がある。これはいかに。
(余談)坪内が安原顕と喧嘩した時、大月隆寛が安原側だとなぜか思いこんだ坪内が、文春地下のクラブで大月にからんだ、ということがあったらしい。
小谷野敦)