第二藝術論 

 平川祐弘先生が東京新聞の書評欄で暴れん坊ぶりを発揮している。昨日は柴田依子(1938−)の初の単著『俳句のジャポニズム』。柴田は東大比較文学会会員なのだが、出身ではないし教えたことがあるわけでもない、不思議な人だ。送ってきたのを書評したのだろう。
 中身はフランスのポール=ルイ・クーシューという、俳句に関心を寄せたフランス文人の研究で、柴田は以前、比較出身の金子美都子とともにクーシューのものを翻訳している。さて平川先生、まず忠実な弟子・夏石番矢の句を紹介して、世界に活躍する夏石番矢を宣伝。続いて「第二藝術論」の桑原武夫を、自虐的な日本人として批判する。そのあと内容紹介があって、しかし最後は、よく調べてあるが藝術的にはどうか、などと書いてある。学問はよく調べてあればまずよいのであって、藝術的にどうかなどと言うあたり、暴れん坊たるゆえんである。
 ところで、私は俳句第二藝術論である。平川は、世界的に俳句は愛好されているから、第二藝術などではない、と言う。しかし、外国語で作られた俳句というのは、あれは俳句であろうか。だいたい、俳句というのは日本の伝統的文藝などではない。明治期に作られたもので、それ以前は、俳諧連歌であり、連句である。俳句をやっている素人たちで、まあ連句までやるというのは少数派だろう。素人にもできるというところが、第二藝術であるゆえんなのだから、広まっているという事実は、なんら桑原の論拠を崩さないのである。それにあれが世界的に人気があるというのは、トランプや麻雀が広まったようなもので、だから藝術ではないというわけだ。
 もちろんそれを、お前は個人の才能から生まれる藝術という近代ロマン主義的藝術観でものを言っていると言われたら、その通りだが、その理屈を認めるなら、平川先生は、ノーベル文学賞をとった、大嫌いな大江健三郎も認めなければならなくなるのだ。  
 たとえば、山口誓子の句をいい、と思って句集を買ってきて、続けて読むと、そうそうみながみな名句というわけではない。
 短歌はどうかというに、有名なのは源実朝の例で、実朝には有名な歌がいくつかあるが、家集『金槐和歌集』を読むと、その有名な歌以外は、平凡なのにみな驚く。勅撰和歌集ですら、新古今以降のものなど、専門家以外は読まないだろう。
 もっとも、最近私は、小説も時に第二藝術的性質を帯びると思うようになっていて、芥川賞受賞作の中には、どこがいいんだというものがたくさんあって、それと、無名の作家の好短編と比べて、後者がいいというようなことがある。
 このこと、さらに考察を要するだろう。

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芥川賞は『文學界』に載るととりやすいというのは本当かと思って数えてみた。まあきっとほかに誰かとうにやっているだろうが、戦後に限っていうと、受賞作の掲載誌は、
文學界』53
『新潮』20
『群像』18
『文藝』10
海燕』3
『すばる』2
 とまあ、事実のようですね。『すばる』は後発とはいえ『海燕』より先に創刊して今もあるんだから、少なすぎでしょ。
 (小谷野敦