登山する者しない者

 『剣岳』という映画を観たが、これでキネ旬三位というのは、まったく映画評論家はどうかしている。要するに雪山でロケをしたのが偉いというばかりの代物で、シナリオがまったくひどい。登場人物はみんな芝居がかった芝居をするし、むやみと哲学的、宗教的な台詞ばかり吐くし、音楽はバッハ、ヴィヴァルディと来て、あの、キューブリックが『バリー・リンドン』で管弦楽曲にして大いに盛り上げたヘンデルサラバンド、続いて蜷川幸雄が『王女メディア』で使ったあれを、クライマックスに使うのだが、こんなの、キューブリック著作権を主張してしかるべきものだろう。
 ところで私は当然のごとく、登山をしない。中公文庫には一時期登山の本がやたら揃っていた。新田次郎も登山小説家で、歴史小説も書くがあまりうまくない。皇太子は登山が好きだから新田次郎が好きでまあそれはいいのだが、登山なるものは、する人間にとっては崇高な行為だが、しない人間にとっては、何を好き好んで雪山なぞに登って遭難して他人に迷惑をかけるのかという行為である。誰が一番乗りかなどというのも、まったくアホらしいとしか思えない。

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大河ドラマ入門』
p.155「十代将軍家斉」→「十一代将軍」
p.208「山河燃ゆ」のところの「呂宋助左衛門」はトル。

 上は単なる私の間違いだが、下はなんでこんなことになったのやら。編集者が、何度言っても、『山河燃ゆ』は架空の人物らを描いたものだから役名は入れないというのを理解しなかったという事情があるが…。

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佐伯順子さんは、13年間、帝塚山学院大学に勤めた。学生のレベルも高いとは言えないし、場所はもうその電車にそのまま乗っていると高野山へ行ってしまうような大阪の南部で、なかなか大変であったろうが、少なくとも日本の世間というものは、そういうところで長年がんばった(耐えた)ということを、人間を測る物差しにするものである。「ひとすじ」というのがいいのである。谷沢永一なども、毒舌家でありながら、関西大学を出て、そこの教授を定年まで勤めたから、日本的世間では評価されるのである。
 森雅裕などは、江戸川乱歩賞でデビューしたのだから、推理小説ひとすじを期待されたのだろう。それが、恋愛小説や時代小説を書き始めたのが、日本的世間からは許されなかったのだ。せめて、直木賞くらいとるとか、大物になるかしてから、他分野に手を出せと。ま、そういうことだ。
 (小谷野敦