栗原さんと枡野さんと豊崎さんへ

 ツイッターでもめていたのを、栗原さんと枡野さんにはメールしたのだがどうしても埒が明かないので、ここでまとめて声明としておきます。
 まず私は、前から「論者と論点を混同しない」ということをモットーとしておる。Aの言ったことでaはいいがbは良くない、と分別するわけである。それはまあ、当然のことだ。
 さて私は、豊崎由美さんの書いたものをそうよく読んでいるわけではないが、「悲望」や翻訳『エンジェル』を褒めてくれたし、恩義は感じていた。しかし、渡辺淳一石原慎太郎を攻撃するのがどうも一本調子で、かつある種の「俗情との結託」だと感じていた。渡辺淳一に関しては、『失楽園』の頃つまり97年ころ、高橋源一郎が『文學界』あたりで批判していたと記憶するし、石原に関しては、都知事就任の頃から、イデオロギー的な批判が数多かった。
 だが、この二人のせいで、芥川賞直木賞の選考がおかしくなっているなどということはないのであって、石原が批判している作が受賞することはきわめて多いし、渡辺にしてもそうである。それに、渡辺は『失楽園』以後の性愛小説ばかりがクローズアップされるが、それ以外にも、伝記小説や、自伝的小説があり、そちらもちゃんと見るべきではないのかと思うのである。
 もっとも豊崎氏は、かつては演劇時評をしており、その後も主として現代外国文学が好きらしく、日本近代文学全体についてどの程度の意見を持っているのかはよく分からない。『百年の誤読』は一応日本近代文学も入っているが、あれはベストセラーを読むという主旨である。
 それでも、なかなか見識がある、とは言えようが、私と文学観に違うところがあるのは、これは他人だから当然のことである。たとえば青山七恵の「ひとり日和」を私は私小説の佳作として高く評価しているが、豊崎さんはそうではない。『文学賞メッタ斬り』の相手が大森望であることから、自ずと反私小説的になるということもあろう。 
 さて、『正直書評。』が出た時、私はいくぶん失望したのである。相変わらずの渡辺攻撃と、インテリ・亜インテリであれば当然のごとくバカにしている坂東真理子批判とかで(私もこの人の発言に呆れたことはあるが、相手にするほどのものとは思っていない)、「ひとり日和」も辛い点がついているが、桜庭一樹『私の男』を絶賛していたのには驚いた。確か『週刊現代』の「NANA氏の書評」では厳しい批判がなされていたが、いかにも作りものの、実際には今どき珍しくもない筋立てで人を驚かそうとする小説に過ぎなかったからで、「ひとり日和」については誤差の範囲としても、こちらは、本気ですか、と言わざるを得ないものであった。要するに「ひとり日和」は、石原が推したから貶し、『私の男』は渡辺が否定したから褒めた、としか見えないのである。(ただ「ひとり日和」は予想の段階で水準以下と言ってはいた)
 そして豊崎さんは次第に、一部の若手女性作家を妙に褒めるようになっていく。川上弘美とか、桜庭とか、川上未映子である。
 で、『本の雑誌』三月号で豊崎さんは絲山秋子と対談して、絲山の『海の仙人』についての私のアマゾンレビューを絲山がとりあげて異議を唱える。これについては先日書いた。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20100318
 それでこの後ツイッター豊崎さんに糺したのだが、それが中途半端に終わった。まず「川上弘美の亜流」というのが、どう間違いなのか、分からなかったからである。
 するとちょうどその頃、宇野常寛君が『サイゾー』で、「御用評論家」について書いていて、豊崎さんが主宰する『書評王の島』を下に小さく掲げて、川上(未)桜庭などの和服姿まで褒めて媚びていると書いたのである。私は豊崎さんとは面識がないのだが、宇野君とは会ったことがあって、『プラネッツ』にも二度登場している。しかし申し訳ないが、宇野君の書いたものはほとんど読んでいない。
 しかし、この点に関しては賛同できると思ってそれを表明したら、宇野を援護するなどけしからん、と言われたわけである。あれは私怨でやっているだけだとか、宇野はかくかくの卑怯な奴だとか言うのである。まあ、枡野、栗原両氏からである。
 だが、私は宇野君が何をしてきたかということを知らないのである。だから、両氏、ないし豊崎氏には、何々を読め、と私に勧めるとか、ブログでまとめるとか、してほしいと思うのである。それに、私は今回の宇野君の論点に賛同しただけで、宇野万歳とか言ったわけではないのだが、どうしてもここのところが分かってもらえない。
 さてツイッター上で三つ巴の乱戦になって、豊崎氏は、『海の仙人』の「ファンタジー」のような存在は、ほかの文学作品にも出てくるのだから、川上弘美の亜流というのは乱暴ではないか、と言う。私は、それは具体的にどんな作品か、と訊いたが、それこそファンタジーによく出る、と言う。私は、しかしそれを純文学に用いたのは川上弘美でしょう(具体的には『神様』)、また具体的にどんなファンタジーですか、と訊いたのだが、豊崎さんは、まあ先走って「御用評論家」などと言った私も悪いのだが、「もう返事しなくていいです」と言って逃走してしまい、一方宇野とは、今度会った時に話しましょう、などと「和解」している。
 いったいに、99年頃から、文藝雑誌からは論争がほとんど消えて、書評は褒め書評しか載らなくなっている。豊崎さんは、そういう事態に抵抗して『メッタ斬り』を始めたはずの人なのに、遂には私がそう言ったのを否定して、褒めないと干されるなどということはない、と言いだした。すが秀実渡部直己斎藤美奈子らが文藝誌から縁遠くなっているのは巖然たる事実であろう。そしてあげくは、文藝誌から干されるのは、面白くないか、人間的に面倒くさいからだなどと言うのだが、人間的に面倒くさくない文学者などというのが何ほどのものか。そしてむしろ、宇野のほうが文藝誌への登場は多いのだから、前後矛盾しているとしか言いようがないのである。
 とにかく、私は宇野君がよそで何をやっているか、知らない。知らないとは無責任だちゃんと読めと言われるかもしれないが、古典的文学作品についてどういう見識を持って臨んでいるか分からない人の、文学論だか社会論だか哲学だか分からないものに興味がないのだから、しょうがない。それに私は、豊崎さんの最近を問題にしているのであって、宇野君がよそで何をしているかはこの場合関係ないのである。
 それに、これもツイッターで栗原さんが、『クォンタム・ファミリーズ』を褒める書評を書いたら「東浩紀に媚びている」と言われた、というのだが、それは面白いと思ったから褒めたのであろうし、私も書評は書いている。東は、私が村上春樹についての東の言に異を唱えた際、「このブログ主は」などと名指しを避けて反論してきた奴であるが、小説の出来が良いからよいと言う。
 その昔私は、宮台を激しく憎んでいて、連載対談をしている宮崎哲弥とそれで決裂したこともあるのだが、単に一頁の文章で宇野を支持したからといって、なんでこんなことになるのであろうか。   
(追記)
枡野さんが書いている。
http://masuno.de/blog/2010/04/04/post-167.php
 大変な時なのに申し訳ないと思う。