鈴木貞美『「日本文学」の成立』について

 鈴木貞美の新刊書をめぐって、『新潮』1月号の書評で中島一夫が批判し、3月号で鈴木が反論している。文藝雑誌誌上で論争めいたことが起きるのは久しぶりである。
 鈴木はかねて、前田愛の『近代読者の成立』の、黙読は近代になって始まったという説を批判している。中島はそこのところで、すが秀実の論に対する論及がないと言う。鈴木は、そんなもの関係ない、と言う。ただこの前田批判においては、実際には前田は、前近代においてはみなが音読していた証拠など出していないので、よしとする。
 しかし鈴木という人は、同じような内容の本を繰り返し出す。私は『日本の「文学」を考える』(角川選書、1994)は、あちこち付箋をつけて読んだものだし、森鴎外の初期短編が、ドイツの三文小説のまねだとか、勉強になった。ところが、『日本の「文学」概念』(作品社、1998)も買ったのだが、何やら前著をさらにふくらませたようなものだったから、放置しておいて、結局売ってしまったように思う。それで今度は三度目で、やっぱり日本近代文学史が延々と書いてあるのだ。
 それで買わなかったのだが、ようやく図書館で借りられた。というのは、読売新聞で片山杜秀が書評しているのを見て驚いたからである。片山は、日本の文学部とか人文学というのは奇妙だ、文学だけではなく美術史も歴史も哲学も入っている、と言い、そういう日本の「文学」概念の特殊性を論じた本である、と書いていた。
 そんなアホな。西洋の文学部といえば、humanities とかletterとかいうのだろうが、どこだってそうだろうに。
 それで鈴木著を開くと、いきなり「ヨーロッパやアメリカの『人文学』は、自国語の文献のみを対象とする。そして、その内に宗教学を含まない。それに対して、日本の『人文学』は、日本語だけでなく、漢文の書物、さらに神道儒教、仏教の文献をも対象とする」とある。西洋の大学では、何しろ「神学部」などというものがあるくらいで、北米では、宗教はdivinityなどといってhumanitiesと別個になっていることもあるのだが、もちろん古典語古典文学、仏文、独文、アジアの文学と文明、などに分かれているし、東アジア学科ではそれこそ仏教や神道の研究をする人もいる。
 鈴木はかねて、日本文学史は漢文も入っているから特異だと言ってきたのだが、それは漢文訓読というものが発明されたからである。もし漢詩を「イーペイイーペイユーイーペイ」みたいに読んでいたならともかく、訓読されるのが普通なのだから、それは別段、西洋の陣文学生がギリシアラテン語を学ぶのと何の変わりもない。
 それと、日本では大衆文学も「文学」に入っている、というのだが、それは近世の戯作や歌舞伎のことらしい。このうち、黄表紙・洒落本・滑稽本に関しては、中村真一郎が、近代になって文学史を作る時に、同時代に文学らしいものが少なかったので入れられて得をしたもので、同じ基準で近代文学史を作ったら膨大な量の通俗小説に埋もれてしまうだろう、と書いている。で、私はかれこれ五年くらい前に日文研の研究会で鈴木にそのことを言ったのである。鈴木という人は異論を言われると実に不快そうな顔つきになる人で、その時も、「ええー? どこに書いてあるんです」と言うから、「小学館の日本古典文学全集の狭衣物語の月報にあります」と言ったのだが、参照されてはいない。
 また、冒頭で西洋、シナ韓国の「人文学」は日本と違うと言った以上、この大部な本のどこかに、たとえばハーヴァード大学ではとか、北京大学ではとか、説明がありそうなものなのに、そういうのは、ないのである。
 私は東大の比較文学で、フランス流に「文学」の意味を広く取る、ということを教わって、芳賀先生が久米邦武の『米欧回覧実記』などを扱うのを見てきたわけで、しかし英米でも、別に詩や小説で知られるわけではないサミュエル・ジョンソンは大きく扱われるし、エマソンだって一種の宗教家だし、ミシュレやギボンも文学に入れられるが、この本にはそういう名前は出てこない。
 ノーベル文学賞にしても、初期には歴史家のモムゼン、あとになってもベルクソンラッセルが受賞しているのだが、そういうことも一切論じられていない。むしろ最近では、歴史もまた物語(histoire)であるといった理論のために、UBCのアジア学科では、『六国史』まで物語扱いされていたということは前にも書いた。日本でだって、『古事記』は、神話を含んでいるから文学史にあるのであり、『日本書紀』や「六国史」、『吾妻鏡』や『徳川実紀』はあまり文学には入れられていない。
 かくしてこの書物の壮大な仮説は、まったく成り立たないと言わざるを得ないのである。私は片山杜秀が三田村さんの『記憶の中の源氏物語』と、これを取り上げたことで、文学には知識のない人なのだなあと思ったことである。ただ『新潮』は近所の図書館にないから、中島一夫がそういうことも指摘したのかどうかは知らない。
(付記)『週刊読書人』を見たら、鈴木貞美は今度は紅野謙介の書評に答えていた。こちらは図書館にあるから紅野のを見たが、何だかよく分からないで、最後に、どうも大言壮語が多いとあって、鈴木はそれに答えている。
 前の『日本の「文学」概念』は英訳されているが、こういうのが英訳されるのは別に優れているからではなくて、単に人脈とカネの問題。だって梅原猛の本だって英訳されているんだもの。

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ジャンボフェニックスとラジオ体操の唄
http://www.youtube.com/watch?v=QHwD9uzFrA8

http://www.youtube.com/watch?v=LJFlH7G13js

似てると思う。「空へ空へ」と「ラジオの声に」なんかメロディ同じ。

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http://tondemonai2.blog114.fc2.com/blog-entry-365.html
twitterでは流れて行ってしまうからここにリンク。