「悲望」です。

 山内乾史(1963− 、神戸大准教授)という教育学者が、同氏編『教育から職業へのトランジション』(東信堂、2008)内の論文で、大学院生を描いた小説として私の『悲望』をあげてくれているのだが「非望」になっている。参考文献表でも「非望」。思うに「非望」という一般漢語が存在することを知らないで、自動変換に任せたと見える。

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井上ひさしの三女石川麻矢の『激突家族』(中央公論新社、1998)を読んで、井上がさらにひどい人だと知った。井上が前妻を殴っていたのは知っていたが、編集者も、井上が殴らないと仕事ができないと知っていて「好子さん、あと二、三発殴られてください」と言ったという。信じられない世界である。さらに井上は、新しい恋人、つまり米原万里の妹から、「井上家は子供の育て方を間違えたわね。せめて、きちんと学校だけは出しておかなきゃダメヨ」と言われ、井上はそれを娘たちの前で嬉しそうに話したという。
 いったい、井上ひさしというのは、どこまで人間として低いのだろう。むろん、過去の文豪には、人間として最低な人が何人もいた。夏目漱石だって、幼い子供を杖で打ちすえている。しかし現代において、こういうことが公表されて、なお大作家でいられるというのは、周囲の人たちは何を考えているのか、私は疑問である。

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「侃侃諤諤」でネタにされたのは、『すばる』二月号の、古井由吉佐伯一麦の対談だが、引用された個所は、確かにひっかかる。古井が、文学は追いつめられないといけないが、社会も追い詰めないでしょうと言い、佐伯が、日本は特にそうですねなど言い、どっかから手が伸びてくる、と言う。その後さすがに言い過ぎたと思ったのか、今はどんどん追い詰める社会になっている、などと言っているのだが、どっかから手なんか伸びてこないで追い詰められている人たくさんいるだろう。秋葉原の加藤に誰が手を伸ばしたよ、と当然突っ込みが入るところである。
 こういうのも、一種の「若者叩き」「今の若者はダメ」論かもしれん。佐伯はいいが、立教大学助教授をしていて芥川賞をとった古井に言われたくないなあ、と人は思うだろう。まあ、そういう意味じゃないんだよ、と言うだろうが。