鴻巣友季子の日本語と原爆ファシズム

 西部邁先生が東大を辞めたあと、学生らを集めて喫茶店で経緯説明みたいなのをしたのは前に書いたと思うが、結局西部先生を怒らせてしまって、その時「あんまり老人をからかうもんじゃない」と言って怒ったのだがあの時先生はまだ48歳だった。

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「死んだ人は反論できないのだから悪く言うな」というのは田中純先生も言っていたがおかしな話で、この世には死んだ人のほうが多いわけで、じゃあシェイクスピアホメロス夏目漱石大岡昇平も死んでいるから批判しちゃいけないのかね。
 こういうことは何度も言っているのだが、麻生建にせよ平井正穂にせよ、当時は歴然たる国家公務員であり、その学生指導や人事は田中角栄なんか問題じゃない歴然たる職務権限による国家の一部による行為であって、厳しい視線にさらされるのは当然のことである。その自覚のないやつが多くて困る。

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さてそこで鴻巣友季子の日本語を批評する羽目になったわけで、私は特に鴻巣さんが憎いわけでもないのに、こんなことをせざるをえなくさせるファンが悪いのである。
 『カーヴの隅の本棚』エッセイ集である。これがもう悪文である。まず、英語の書物の名などを英語のまま入れる。これは英文学者が論文でよくやるが、一般読者向けにやるとキザ、ないし鼻もちならない。
 さらに文体および措辞が、美文調で、古めかしい雰囲気を出そうとして、結果として悪文になっている。「玉響(たまゆら)」「(小説を)つむぐ」「たゆたう」とか、まるで文学少女である。
 しかもその使い方をしばしば間違える。「家政婦と語り手の首座」老中首座ではあるまいし。   「9.11テロが起きたのはたくまざる皮肉」たくまざるというのは、ある当人が発した言葉が自然にそうなっているという時に使う。誤用。「ブロンテは文章に関してエコノミスト」これは倹約家という意味で間違いではないが、日本でこう書くと嫌味。
 「措くとする」措く、で終わるのが正しい。
 杜牧の漢詩をあげ、「日本語に訳せばこうだろうか」として掲げてあるのは訓読である。しかも注を見ると石川忠久の訓読らしいから「こうだろうか」はおかしい。
 わずか28pまででこれだけおかしい、ああ嫌だとぱらりとめくったら自分の名前が出てきた。94pで『影響の不安』の訳者として出てくる。むむ、と思ってちらっと前を見ると「茅野氏は幼少のころ二年間アメリカに暮したので」と、これは翻訳家茅野美どりのことだが、「幼少のころ」って高貴な人に使う言葉だと思う。
 102p「翻訳文学は狭量なものに留まってしまう」狭量は人を主語とするものだ。
 かくして、一ページか二ページに一つは、不適切な日本語がある。もう鴻巣訳の検討はやめにしたい。鴻巣氏は翻訳のあり方について考える前に、日本語をもっと勉強するべきである。

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こうの史代『夕凪の町 桜の国』を読む。どうせ原爆を描けば必ず名作になる国だからと思い、映画は観ていたが、これほどひどいとは思わなかった。下手すぎ。これが礼賛されてしまうのはまさに「原爆ファシズム」だね。