親は邪魔っけ

 トレンディードラマでは、主人公たちの親は出てこないということはくりかえし言っている。時には何の説明もなく登場しないが、海外にいたり田舎にいたりするから、それはまあいい。極端なのは夏目漱石で、美禰子は若いのに両親ともいない。
 ある種の小説を書く時に、主人公の親というのは往々にして邪魔である。なぜなら、親のいない人間というのはいないからで、どうしたって触れる必要もあったりするからである。一番いいのはみなしごにしてしまうことである。
 谷崎潤一郎が『痴人の愛』を書いた頃は、当時のこととて、両親とも死んでいた。だが現代では、そうやすやすと両親揃って死んではくれない。
 東浩紀の『クォンタム・ファミリーズ』は、その私小説的な設定が好もしい。もちろん全体はSFで、そんな難しいこといわれても分からんし、SFに詳しい人にはどう受け止められるのか知りたくもあるが、これだけぐちゃぐちゃに「時間旅行」と「パラレル・ワールド」をやられたらどこで整合しているのか分からなくなるから、ハインラインの『時の門』に対する広瀬正の解説みたいのを誰か書いてくれればいいのだ。
 それはそうと、これは明らかに「家族」が主題である。にもかかわらず、主人公の両親というのはどこへ行ってしまったのか。岳父つまり妻の父、つまり小鷹信光は割に重要人物として登場するのだが、主人公の両親は、父はサラリーマン、母は専業主婦とあり、母親には「せりふ」もあるのだが、父親は影も形もない。妹もいるはずなのに、これも抹消されている。テロリストとして逮捕されたとありながら、そのことを両親がどう受け止めたのか、といったことがまるで描かれない。あちこちの「セカイ」で妻や娘がどうなったか、また岳父については描かれても、両親はどうなっているのか、さっぱり分からない。
 リアリズム小説でないからいい、というわけにはいかない。何しろどう考えたって「家族」が主題なのだから。もっとも「SF」にはこういうものが多い気がする。娯楽小説としてはけっこううまいが、それゆえに「純文学」にはなっていない。
(しかし数学とか用いていくら説明したって、時間旅行なんかできるわけないんだから、いい大人がこういう細かな設定を書いているのって笑える)