江藤淳・続き

 2001年に出たものに気づかなかった私も間抜けだ。
 さて、江藤には、東大へ行けなかった悔しさというのがあって、ここでもそれがにじみ出ている。世が世ならジャーナリズムなぞに寄稿しているはずではない、というのがある。西脇順三郎はエリオットの専門家でもあるが、大江健三郎が好んでエリオットを用いるのに対してマサオ・ミヨシは、あんなバリバリの保守派をなんで、と言っていた。また江藤が妙に英文学をちゃんと学んでいて、ラムの箴言など引用しているのである。
 江藤の身辺随筆を読んでいても、それは谷崎や志賀や里見のそれとは全然違う。これらの人たちは、何よりもまず、自分は正しい、というのが真っ先に来るのだが、江藤は、正しいと思いたいのだが思えないといった歯がゆさが漂う。それにしても、この「日本と私」に盛んに登場する江藤夫人が、慶大卒のインテリのように見えないのはどういうわけか。履歴を知らなければ、学歴もない女性と結婚したのだと思ってしまいそうなほど、何を考えているのか分からない。
 そういう描き方をしつつ、自分には居場所がないとか、家庭がどうとか書いているから、ひどく読み心地が悪い。妻より山川方夫のほうがずっと自分を分かっている、と思っているらしいのだ。
 そして、オリンピックで天皇の姿を見て涙してしまう、ここにもう後年の江藤らしい姿が現れているのだが…。また、プリンストンで会ったバスケットボールの選手ビル・スタンレーがオリンピック村から電話をかけてくる場面で、スタンレーはolympicsをolimpicsと書くような学生で「運動選手というものは、洋の東西にかかわりなくときどき同じような間違いをするものだ」という一節には、何か異様なものを感ぜざるを得ない。スポーツ選手の学生が知的に低いレベルにあるというだけのことだが、それにしても、この些細な綴りのミス程度で自分が英語において米国人より優位に立っていると示したがる心性が不気味なのだ。平川祐弘にもそういうところがある。
 平川祐弘は、別に幼くして母を亡くしたわけではないようだが、不思議と、父のことは書くが母のことは書かない。そしてもし平川が東大教授にならなければ、江藤のような人になっていただろうと思わせるものがある。むろん、母について書かないことと、ラフカディオ・ハーンにのめりこむこととは、何か関係があるのだろう。江藤夫人は江藤の『三匹の犬たち』に挿絵を描いているが、平川先生の今度の随筆集にも夫人が挿絵を描いている。大江健三郎夫人も、最近は挿絵を描く。