世代間反復強迫

 要するに中島ギドーは、母が父に愛されず苦しんだから、そのトラウマから、自分の妻を同じ目に遭わせるという世代間反復強迫を行っているわけで、フロイト派の人からしたら格好の分析素材を提供しているわけだ。
 だがなぜかギドーの世界では、常に女が男の愛に飢えている。姉までそうだ。これが実に不思議で、一般には男が女の愛に飢えるものだ。ギドーは女の愛に飢えないのか。恐らくギドーはかなり同性愛に近い人である。『ウィーン家族』全編に漲っているのはすさまじいミソジニーであって、これは上野千鶴子は連載で「中島義道ミソジニー」を書かなければなるまい。ギドーがトラブルを起こす編集者は女ではあるまいか。仕事をしてもらいたがる女性編集者が、ギドーには愛を乞う女に見えていて、それでいたぶってしまうのだ。だがギドーは同時に狡猾であるから、自分に何も求めない女のことは見抜いて、そういうのは相手にしないのだ。
 姉、そして妻が洗礼を受けたということが、ギドーが術語として生煮えな「愛」という語を濫用する所以であろう。
 まったく、日本人離れした人であって、あたかもメデイアに報復されるイアソーンのように、サドやボドレールのように、三島由紀夫のように、ギドーは「女」を憎んでいる。父を憎んでいるかのように見せかけつつ、父に愛されなかったと言い父を罵った母をこそ激しく憎み、男に愛されないと母親の前で失恋話をする姉を軽蔑しているのだ。哲学とはミソジニーの別名である。思想とか思弁とか、それらはみな女を憎む男たちや、自分自身を嫌悪する女たちが愛好するものなのである。

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『日本文学』の9月号で里見とんの「金」を論じて私の伝記にも触れてくれた田中俊男という人は、論文では「島根大非常勤」となっているが島根大ウェブでは「特任准教授」である。どうもいろいろと不思議な職名が出現することである…。

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田渕久美子(1959− )は『篤姫』の脚本家、田渕句美子(1957− )は中世文学研究者の早大教授。

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阪大の比較文学で清水康次という人が教授になった。ああこれで東大比較のポストは失われた。密かに佐伯さんが入ることを期待していたのだが…。