中島ギドーの小説を読む

 中島ギドーの、角川『本の旅人』に連載された『ウィーン家族』が単行本になったので入手、読み始めたらえらく読みにくい。それに、冒頭で語られる、ウィーンで妻がベランダから飛び降りて大怪我をした事件は『続・ウィーン愛憎』(中公新書)に書いてあって、ほぼそれと文章も同じである。
 ギドーは文学については素人だから小説の書き方が分かっていないようで、余計な情景描写で読みにくくしているのと、結局はいつものエッセイを、登場人物を変名にして書いているようなものだ(まあ、俺の小説も人によってはそうなんだろうが)。
 それに、1998年のこの事故に、いきなり結婚した時のことが混じってくるからむやみと読みにくいのである。そこで時系列に直すと、
1977年 31歳 東大哲学科修士課程修了。
1979年 33歳 予備校教師をしていたが、ウィーンに私費留学
1980年 34歳 七人の女からいっぺんに求愛・求婚されるが、なぜか今の妻と結婚
1983年 37歳 博士号取得
 (ウィーンで妻が流産)
1984年 38歳 東大教養学部助手、息子が生まれる
1987年 41歳 帝京技術科学大学助教
1990年 44歳 『ウィーン愛憎』刊行 
1994年 48歳 十年ぶりに再度ウィーンを訪れる(『続ウィーン愛憎』)
1997年 51歳 父親が死ぬ。
1998年 52歳 ウィーン半移住計画
    4月に妻と息子がウィーンに滞在を始める。ギドーは家を探していったん帰国。
    6月に妻が転落事故。
    10月『孤独について』が刊行され、両親の不和を描いたため母親がショックを受け、姉から非難される。
   一時帰国。息子から激しく嫌われる。
1999年 53歳 3月、妻子を残して帰国。
2000年 54歳 4月、妻、洗礼を受ける。
2003年 57歳 息子、ウィーンのアメリカンスクールを卒業、日本のカトリック系大学に入学。
2004年 58歳『続・ウィーン愛憎』刊行。
 なお母親は98年の時点でガンだと小説にあるが、その後どうなったのかは知らない。

 今回の小説で初めて描かれたのは姉の姿であろう。男に愛されず、洗礼を受けて独身のまま来た姉である。
 ギドーの父が何者か分からないが、小説によれば帝国大学卒で、母は19歳で親に言われるまま結婚したという。それなりの地位を築いて鎌倉に邸宅を建てたらしい。この母が、父に愛されず苦しんだということが『孤独について』に書いてあったわけだ。
 さて、妻がベランダから飛び降りたというのは、料理中にドアを叩く音が聞こえたので外へ出てみたら誰もおらず、その時風でパタリとドアが閉まりそのまま施錠されてしまい(西洋にはなぜかこういう危険なドアがある)、火がついたままだったから、妻は屋上へ上がり、4メートル下のベランダへ飛び降り、はいずって火を止め、見ていた階下の人が駆けつけてドアをたたいたのでまたはいずって行って開けたという。
 無謀ではあるが、火が気になったとすれば、分からない行動ではない。だがギドーは、『続ウィーン愛憎』でも『ウィーン家族』でも、この妻の行動を一貫して非難し続ける。これがもう理解不能である。その後椎間板ヘルニアで病院に行って帰ってきた時もギドーがいきなり「いくらかかった?」と訊くから妻が怒る。そりゃ怒るのが当然である。
 しかし肝心の妻も変で、ウィーンで三年間日本人学校で教えていたというのに、ドイツ語ができないで、ギドーに頼るのである。文部省から派遣されたというが、それはなぜか。また十年間小学校教師をしていたというが、いったいどこの大学を出たのか。山の手の茶道教授を母に持つ裕福な家庭で育ったというが、結婚する際、姉から、英語もできない、教養もない、あの人で本当にいいの? と言われたという。なぜ結婚したのか、説明しないから分からない。まあ私はギドーの著書を最近は読んでいないから、どこかに書いてあるのかもしれないが、多分ないだろう。ギドーの語りは、赤裸々にすべてを語っているように見えて、こういう肝心なことが抜けている。だから信用できないのだ。 
(付記:てっきり父親を憎んでいるのだと思っていたら、そうではなくて母親を憎んでいたのだと指摘される。何というアンチ・オイディプス)