共立と恐竜

 「共立学校」が「きょうりゅう」と読むと知って、ああ当時は「恐竜」って言葉がなかったんだろうなあと思い、『日本国語大辞典』で見てみたら確かに、「恐竜」の初出は大正3年であった。国会図書館で書名を検索しても、戦後の海野十三「恐竜島」が最初である。
 しかしでは共立女子大は? これは明治19年に共立女子職業学校として創設されており、明治末年の二十五年史も国会図書館では「きょうりつじょし…」となっているが、ルビは確認できない。しかしそもそも「きょうりゅう」という読みは最近になって言われだしたのではないか。「共立 きょうりゅう」で検索すると、『坂の上の雲』ばかり出てくるんだもの。
 ウィキペディアで見ても「きょうりゅう」と書き加えられたのは2007年12月である。しかものち東京府立開成学校となる際、「府立」と「共立」は両立しないとされたからとあるが、だとしたらその頃にはもう「きょうりつ」と読まれていたのではないか。

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自伝『女優 岡田茉莉子』(文藝春秋)に、岡田時彦の谷崎による弔辞紛失と発見について書いてある。1929年1月、岡田時彦の葬儀で谷崎が読んだ弔辞が誰かによって持ち去られて紛失したのが、1968年の11月か12月、神田の一誠堂で売りに出ているのを、川端康成が見つけて購入し、岡田茉莉子宅に電話をしたら吉田喜重が受けて、岡田は芸術座の『カリーライス誕生』で相馬黒光を演じていた最中で、帰宅して聞かされ、買い受けたという。この話は『ユリイカ』2003年5月号谷崎特集の岡田のインタビューにも出ているが、そのため弔辞は翌年刊行の谷崎全集に載っている。
 持ち去ったのは、時彦の葬儀を取り仕切った映画雑誌の編集者ではないかとあり、68年の春に新聞にその人の死亡記事が出ていたという。これは誰かしら。
 茉莉子はその後母親と、松子夫人にも知らせたというのだが、川端が、松子夫人ではなくて岡田茉莉子に知らせたというのがちとおもしろい。たぶん川端と松子は仲が悪かったのだろう。ノーベル賞受賞直後の川端、神田一誠堂にてと、川端詳細年譜に記入せねば。

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アメリカにおける秋山真之』文庫版解説は小堀桂一郎斎藤信子さんのご指名か。