ある都市伝説

 「純文学と大衆文学という区別は日本独特のものだ」という不思議な都市伝説が、一時期文壇かいわいを徘徊していたようだ。
 その発端はもしかすると、鈴木貞美の「純文学と大衆文学」という、1993−94年の『文學界』の連載ではないかと思うのだが、鈴木はここで、西洋にも大衆文学があった、ということを認めつつ、不思議なロジックで(たとえば純文学、大衆文学に当たる言葉はどうたらこうたら)、日本独自のものだ、と言っているのである。
 これは、笠井潔の「そして、純文学は消滅した」を受けたものだが、鈴木の論考を受けて、『群像』12月号で笠井、川村湊、清水良典が鼎談をしている。もっとも、それから五年後に、出久根達郎が「外国には、純文学、大衆文学という区別はないんですよね」と『文藝春秋』の直木賞作家鼎談で発言したことが、笙野頼子の「論争」の一つのきっかけとなった。
 バカか。
 じゃあ英国人は、コナン・ドイルアガサ・クリスティーと、ジェイムズ・ジョイスヴァージニア・ウルフを「差別」しないで扱っているとでも思っているのか。普通に考えればバカバカしいこんな話を、書いた鈴木も鈴木だが、それに対して何も言わない周囲も周囲である。まあさすがに鈴木は、その後間違いに気付いたようだが、数年前まで、西洋ではコナン・ドイル以前に大衆文学はなかったとでも思っていたらしい。
 ただし恥ずかしいことだが、その時は私も重大な過ちを犯していて、シェイクスピアは民衆演劇だという、小田島先生の説明を信じていたのだ。だが実際には、シェイクスピア劇の観客は、王侯貴族、上層町人が中心であり、民衆演劇ではなかった。小田島先生が間違っているということは、1970年代に福田恆存が指摘していたのだが、やんぬるかな、広まらなかったのだ。

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Ciniiや国会図書館雑誌記事目録でかなり便利になったが、さて問題は、そこで見つけた記事が、著書のある人のものである場合、どこかの単行本に入っているのかどうか、これを見つけるのが時にけっこう難しい。
 国会図書館の書籍のほうは、新しいもののほうがむしろ内容は分からなくなっている。それでwebcatや、新しいものならアマゾンのレビューなどを手掛かりにする。しかしそれでも分からない時がある。