四方田犬彦『歳月の鉛』を読む

 『駒場東大学派物語』を読んだ、十年ほど先輩に当たる人から、自分らの時代とは雰囲気が違ったのだな、という感想が寄せられた。佐伯彰一先生が主任の時代である。佐伯先生は、「右翼」でもあるが、研究室の運営には、そういう意向を反映させなかったようだ。
 四方田の『歳月の鉛』を見ると、四方田は佐伯先生を指導教官としている。芳賀徹の名は一箇所、平川、小堀の名は出てこないが、由良君美が口を極めて罵っていた同僚というのは、小堀だろう。
 四方田と同じ頃に比較の大学院にいた女性には、結婚までの腰かけの人が多く、次々と官僚と結婚していった、とあり、あまり異性としては感じなかったとある。私の当時も、官僚と結婚した人は二人ほどいたが、学者をやめることはなかった。十年の隔たりは、やはり大きい。もっとも、比較の大学院でのことは、あまり書かれてはいない。
 むしろ眼に留まったのは、中沢新一が、一度もチベットに足を踏み入れることなく『チベットモーツァルト』を出して詐欺師的才能を示したというところで、中沢は、ネパールでチベットの亡命僧ラマ・ケツン・サンポに就いて「修行」したと言うが、果たしてどの程度の「修業」だったのか。
 もう一つ、エリアーデの『永遠回帰の神話』に、コーカサスのある地方では、レーニンは虎退治をした英雄として受け止められているという記述があって四方田が「マルクス主義歴史観を包摂してしまう民俗学的想像力のあり方」に新鮮なものを感じると、柳川啓一が、林達夫が『共産主義的人間』で同じようなことを書いていると言う。
 私はこの二冊とも読んだことがあるが、全然覚えていない。それもそのはずで、今読んでも何が新鮮なのだか分からない。普通だろう、と思う。要するに私は、マルクスの『資本論』には一定の評価を下すけれど、マルクス主義歴史観などというものを信奉したことが一度もないから、何も感じないのである。
 しかしつくづく四方田という人は、自分を美化してしか描けない人なのだなあと思った。大して読んではいないが、失敗談のようなものを語ることがまずない。
 中沢新一は、島田裕己の批判をまったく無視して現在に至っている、とあるが、四方田犬彦小谷野敦の批判をまったく無視して現在に至っている。
 (小谷野敦