「大山詣り」的疑問

 「大山詣り」という落語がある。長屋の連中が毎年大山に参る。これは現在の神奈川県にある信仰対象の山である。ところが、毎年酒を呑んで暴れる熊さんがいるので、今年は酒を呑んで暴れたら頭を坊主にするという約束で出かけるが、案の定熊さんは酒を呑んでケンカをする。
 そこで連中は、熊さんが酔って寝ている間に頭を剃ってしまい、翌朝、熊さんを置いて帰途についてしまう。眼が覚めた熊さんは、頭を剃られ、置いていかれたことを知って怒り、駕籠で江戸まで先回りして、おかみさんたちを集め、ほかの連中は舟が嵐にあって死んだ、自分は供養のためこうして坊主になったと言い、おかみさんたちを坊主にしてしまう。そこへ長屋の連中が帰ってきて…という話。
 私は、どうもこの噺に疑問がある。坊主にすると決めたなら、なぜ寝ている間にするのか。また、坊主にするのはいいが置いていくのはひどいし、熊さんが怒るのは当然である、ということだ。
 これは上方落語の「百人坊主」を江戸に移植したものだというが、筋は全然違い、「百人坊主」では、ただ寝ている間にいたずらで坊主にし、された者が他の者を坊主にして、全員坊主になってしまうという噺だ。
 川戸貞吉の『落語大百科』はこの落語を、上方からの移入にしては無理がない、としつつ、決め式を出発前にやっておくと、長屋のおかみさんは熊さんが坊主であるわけが分かってしまうから、彦六などは、途中で決めることにした、と書いている。
 しかし、私には疑問がある。熊さんを置いてきてしまうところだ。もっともこの「置いてくる」なしには噺が成立しないのだが、坊主にすると決めたのなら、寝ている間にしなくてもいい。しかしそうしないと、「坊主にして、そのまま置いてくる」が成立しなくなる。熊さんだって、落語家によっては、「坊主にされるのは決めたことだからしょうがないが、置いていくのはひどい」と言う。そういう意味で、噺に無理がない、とは思えないのだ。

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週刊現代』で井上章一さんが三田村さんの『記憶の中の源氏物語』を書評して、論証にあやしいところが、と書いている。かたや『文藝春秋』で本郷和人は、大木康の本の書評の中で、『源氏物語』なんて中世まではごく一握りの人しか読んでいなかった、と書いているのは、三田村さんの本の批判に間違いない。