有島武郎情死事件(波多野春房は烏峰なり)

 これは『文學界』2003年4月号に載せた「昭和恋愛思想史」の第一回の一部なのだが、『恋愛の昭和史』にする際、割愛したものだ。その後、波多野春房の正体が波多野烏峰だと分かったので、参考のため載せておく。あとでウェブサイトに移動予定。

 作家・有島武郎の心中事件が起きたのは、その二年後、大正十二年である。妻を亡くした有島は、『婦人公論』記者の波多野秋子と恋仲になり、その六月九日、軽井沢の別荘で縊死心中を遂げ、一月たった七月七日早朝、発見されたのである。実はこの事件については、概略を記したのみで先へ進もうと思っていたのだが、調べてみると細部に曖昧な点、人によって解釈の違う点があるので、特に新資料があるわけではないが、少し詳しく述べてみたい。新聞の第一報は七月八日、相手の女性が波多野秋子であることが報じられたのは翌日である。秋子は三十歳(当時の記録なので数え年)、丸之内日本連合火災保険協会書記長、当時五十三歳くらいの波多野春房の妻で、新聞報道によれば、京阪電鉄取締役・林謙吉郎という実業家が、新橋の藝妓新吉、本名青山たまに生ませた庶子だが、その母は男と別れ、娘を藝者にしないため教育を授け、秋子は大正元年、十九歳の時実践女学校を卒業したが、英語の個人教授をしていた春房と恋愛関係に陥り、春房は前妻を離縁して秋子と結婚、秋子はさらに女子学院英文科に入学、大正三年に卒業し、青山学院の英文科に入学、七年に卒業して、高島米峰の推薦で『婦人公論』の編集者となった。
 ところで問題は春房の前妻であるが、最近出た菅野聡美の『消費される恋愛論−−大正知識人と性』(青弓社)には、情死発見の月に刊行されたらしい、文化研究会編『厳正批判有島武郎の死』(文化パンフレット二十三号、文化研究会出版局)が、一次資料として盛んに用いられているが、この本は昭和女子大学の『近代文学研究叢書』の有島関係文書の目録にも載っていないから、忘れられていたものかもしれない。国会図書館にはある。本文は七十四頁、著者は「法学士・弁護士・遠矢良己」という人のようで、道徳的観点から不倫の結果の情死を批判するのが趣旨である。ここに、その波多野の前妻である男爵令嬢日置(ひき)安子なる者の談話が載っている。それによると春房の父は元吉野宮宮司・春麿で、春房は米国から帰って英語教師をしており、女子大の家政科に通っていた安子がそこへ稽古に通ったのは二十三歳の時、明治三十九年十一月、「横浜の観艦式へ二人で出かけた帰りに四谷のある旅館へ連れ込まれて関係をつけられました・・・あとで波多野が有名な色魔だといふ事がわかりました。私より外にもなほ三四人も稽古に来てゐる女に関係があつたやうです」と言っている。安子は二人の噂が流れたので一時岡山の父のところへ帰らされたのだが、波多野がつきまとうので遂に同棲することになり新町に世帯を持ったとある。『平成新修旧華族家系大成』によると日置家は岡山藩の家老の家柄で、安子の父健太郎が明治三十九年、男爵を受けている。安子は次女で、明治十三年生まれだから、四十年には数えで二十八歳。さて結婚はしたがひどい窮乏生活で、三、四年後に離婚したという。しかし、二人で横浜の観艦式へ行ったり、親のもとにいる娘がいかに男がしつこいからといって結婚に至るというのは当人の意思としか思えない。遠矢は最後に「もつとも安子といふ女も、稀代の妖婦だから、どつちがどうかわかるものでもない」と書いている。ということは日置安子というのも当時醜聞で知られていたのだろうか。『家系大成』では、大正五年、分家となっている。いずれにせよ別の女に見変えられた形の前妻が春房をよく言うはずもない。
 その他、七月九日から十一日まで「読売新聞」は、春房の素行の悪さを仄めかしており、「波多野氏は女蕩しとの評判」とか、二人の女優と愛人関係にあったとか書き立てている。菅野はこれらをすべて受け入れてしまっているのだが、有名作家が人妻と心中したとなれば、世間は同情から夫を悪く言いたがりあれこれ尾鰭をつけるものだ。前妻との結婚の事情にしても、與謝野鉄幹が晶子と結婚する前後の行状と大同小異である。奇妙なことに、春房は秋子の四十九日を迎えて再婚しているのだが、その相手は新橋の藝者大隅れい子なる者で、春房とは面識がなかったが、新聞を読んで、独り取り残された春房に同情し、人を介して結婚を申し込んだという。女優の愛人がいたというのなら、これもおかしな話だ。春房は写真を見てもそれなりに整った顔だちで、艶福家ではあったのだろう。
 実のところ、春房と秋子の夫婦仲はどうだったのか。十二日の「東京朝日新聞」は、その三月十五日に有島が秋子宛に書いた手紙を掲載した。有島と秋子が知り合ったのは前年の夏ではないかと推定されているが、有島はこう書いている。「愛人としてあなたとおつき合ひする事を私は断念する決心をしたからです。あなたにお会ひするとその決心がぐらつくのを恐れますから今日は行かなかつたのです。私は手紙でなりお目にかゝつてなり波多野さんに今までの事をお話してお詫びがしたいのです。(中略)純な心であなたを愛し、十一年の長きに亘つて少しも渝らないばかりでなく、あなたにも益々その人をいとしく思はせる程の愛情をそゝいで居られる波多野さんをあざむいて、愛人としてあなたを取りあつかふ事は如何に無恥に近い私にでも迚も出来る事ではありません。(中略)あなたも波多野さんの前に凡ての事を告白なさるべきだと思ひます。而してあなたと私とは別れませう」以下略すが、その前日、秋子から遺書を受け取った親友の石本恵吉男爵夫人静枝が記者会見を開いてこれを公開、十二日の「読売新聞」には、それが全文掲載された。
 「私の波多野に対する心持、武郎に対する心持はあなたははつきり解つて下さることと存じます(中略)私にはどうしても波多野を忘れられません それでゐて私は武郎を捨てることは決して出来ないので御座います(中略)私といふ赤ん坊は年頃になつて恋を知りました。真剣な恋を致しました其の相手が武郎だつたのです。お互は結婚生活はあまり考へませんで愛すれば愛するほど死の誘惑が強くなつて行きました」。そして、有島は春房に告白すべきだと言ったが秋子は「波多野の苦悶を思ふとどうしてもそれが出来ないので卑怯でも一日一日とのばして」しまったと言っている。静枝は会見で、二人が関係をもったのは一月ころで、二月に秋子からそれを打ち明けられ、「有島さんと波多野さんの二人に対するあなたの愛がはたしてどちらが重いか」考えるよう注意したという。この石本静枝は、秋子より五歳ほど年下の親友だったが、昭和十九年、石本男爵と離婚して加藤勘十と結婚、戦後初の女性議員となった加藤シヅエで、二○○一年、一○四歳で長逝したが、一九九七年十月号の『婦人公論』で、改めて秋子について語っている。
 当時、秋子さんは結婚して、中野にお住まいで、お宅にも何度も遊びに行きました。ご主人の春房さんとは、ずいぶんお年が離れており、私から見ると「おじさん」といった感じでした。もちろんインテリでスマートな紳士ですが、お釣り合いのご夫婦というより、秋子さんが年配のおじさんに可愛がられ、保護されているといった印象を受けたことを覚えております。(中略)
 (当時秋子は有島を誘惑した悪女のように言われ)悪女の親友だったということで私まで悪女としてさんざん悪口を言われ、攻撃されました。(中略)どんな新聞も雑誌も、ひとことの弁解も聞き入れてくれませんでした。
秋子は、春房宛の遺書には「十二年間愛しぬいて下さつたことをうれしくももつたいなくも存じます。わがまゝのありたけをしたあげくにあなたを殺すやうなことになりました。それを思ふとたまりません。あなたをたつたひとりぼつちにしてゆくのが可哀想で〜〜なりません」とある。けれど秋子自身のこうした文言も、静枝宛遺書もひっくるめて、菅野は「虚飾に満ちている」「そらぞらしい」とするのだが、それは先の新聞ゴシップを受け入れているからだ。渡邊凱一(よしかず)の『晩年の有島武郎』(関西書院、一九七八)も、秋子が『婦人公論』記者になったころから、夫婦仲は冷却していた、としている。そう記述する根拠はよく分からないのだが、さきの有島の「波多野さんに済まない」旨の手紙についても、秋子が「女性特有の虚栄感のないまざった感情で春房がいかに自分を愛してくれたかを」語ったのだろうが「実際には、彼女の心は夫から千里も隔たっていたはずである」としている。これも憶測だ。
 おそらく春房がこれほど悪く言われるのは、有島の親友で、本の出版を引き受けていた叢文閣の足助素一が有島の個人雑誌『泉』の終巻号(同年八月)に書いた「淋しい事実」に依拠しているのだろう。足助は六月七日に、入院中の足助を訪ねて事情を告白したのだが、それは秋子との関係を春房に知られて、賠償金を出せ云々と罵倒されたからだと言うのだ。足助はその様子を会話体で書いており、有島は、「たうとう・・・それほど僕を思ふのなら・・・姦夫になつてやれ、つて決心したんだ。/「四日、たうとう僕等は行く所まで行つたんだ・・・」とある。ここから、二人は六月四日に初めて性関係を持ち、八日に情死行に出たことになるが、渡邊は、三月の手紙に「愛人」とあるからにはそれは信じがたい、としている。石本静枝の話の内容から言っても、二月にはそういう関係にあったはずだ。「東京朝日新聞」七月九日の記事では、五月中に春房の大阪出張中、二人は鎌倉に泊まり、帰京後それを知った春房が秋子を責めると、「離婚して下さい」と涙を流したので、春房は有島を訪ね、「離婚するから秋子を妻にしてくれ」と言ったことになっている。しかしその返答がどうだったのか分からない。そしてこれが本当なら、六月四日に船橋で二人が泊まった後で春房が勤務先へ有島を呼んで罵倒したというのはどういうことか。以下は、推理になる。有島は、学校へ通わせ、当時としては寛大にも婦人記者となることを許し、十年間秋子を慈しみ育ててきた波多野から秋子を奪う形になることはその良心が許さず、秋子と別れることを約束したのではないか。にも関わらず、秋子の側からか有島の側からか、関係を切ることができず、船橋行きとなり、それを知った春房は、二度目だからこそ激昂して、賠償金云々という話になったのだろう。この時の有島と春房のやりとりを足助が有島から聞き、それを武郎の弟の生馬から末弟の里見弓享に伝えられたこととして、里見が後に小説『安城家の兄弟』に詳しく書いている。ただし細部は後に聞かされたことだと断ってある。佐渡谷重信の『評伝 有島武郎』(研究社出版、一九七八)は、著者自ら言うように、評伝というより小説だが、この部分は『安城家の兄弟』をひき写している。
 しかして、心中死体発見後、足助は『国民新聞』で秋子への愛を語る春房に激怒し、「淋しい事実」の中で、「『死人に口なし』をいゝ幸にして余り白々しいことをいふのはよせ」云々と罵倒し、やはり有島の親友の橘浦泰雄は、春房が「氷のやうに冷めたく軽薄な感じに嘔吐を催した。・・・同氏の本事件に関する行為と態度は、抑々の始めから、不純と不正そのものであつた」と書いている。とはいえ、足助らは「そもそもの始め」など知らないはずである。この点について、『安城家の兄弟』は鋭い記述をおこなっている。カッコ内は小谷野による。
隼夫(弟・隆三)と田代(原久米三郎)と三人で、初めて萩原(春房)といふ男に会つてみた時にも、昌造(里見)の同感は、むしろ先方の言草に余計感じられたくらゐだつた。(中略)田代の権謀術数の多いのには、身方ながらいゝ感じがもてなかつた。(中略。萩原は)成程、一筋縄でいかないしたゝか者でもあるし、文吉などとはまたがらりと性(たち)の違ふ一種の見栄坊には違ひなかつたけれど、昌造の眼には、決してさう不愉快な人物とは映らなかつた。(中略)現に誰より一番馬鹿をみたのが彼だといふ事実に間違はないのだし、(中略)とても昌造には、敵意など感じられるものではなかつた。もしも、素直にその心持を訴へられでもしたら、兄に代つて詫を言はずにはゐられなかつたかも知れない。それを、たゞ頭から人非人のやうに言ひ募る加茂や田代の激昂だけをもつて観ても、今度の事件で曝露された文吉(武郎)の甘さ、錬(きたへ)の足りなさは、ひとり彼のみのものではなく、日比(ひごろ)親しくしてゐた友達仲間にもまた共通のものと知られ、昌造は腹の底からうんざりさせられて了つた。(中略)たよりに思ふ年長者たちが、一人残らず上吊つて了ひ、身勝手な考へ方ばかりしてゐるのが、不愉快で不愉快でたまらなかつた。(「屍」)
清教徒的な兄と違って、藝者遊びなどもずいぶんしたらしく、藝者を妻にした里見の洞察こそ、最も正確なものだろう。里見がこう書いているのを知っている最近の研究者でも、偉大な作家・有島を崇めるあまり、普通の人間である波多野春房が、こんな境遇に置かれればこうなるのも無理はないということに気づかず、「不誠実」だの「ちゃっかり藝者と結婚している」だのと書かずにいられないのだ。
 なぜ、波多野春房は悪く言われるのか。それは夏目漱石大正元年に『行人』の長野一郎に言わせたように、姦通を犯した二人(ここではパオロとフランチェスカ)の名前は記憶しても、その夫の名前を忘れるのが世間というものだからである。事実、有島はもちろん、波多野秋子の名は知られていても、春房の名は、調べようとしないかぎり誰も知らない。永畑道子が、心中直前に有島と與謝野晶子の間に恋愛感情があったという推定のもとに書いた小説『夢のかけ橋』を映画化した『華の乱』で、春房は、悪役俳優成田三樹夫によって演じられ、人形集めに凝っているエキセントリックで残虐な男として描かれた。厨川白村は、当然のごとくこの事件にコメントを求められ、情死に理解を示したが、この事件が一段落した九月一日に襲った関東大地震の際、鎌倉で津波に襲われて死んだ。四十二歳だった。遺児文夫は、慶応大学で西脇順三郎に英文学を学び、中世を専攻して『ベーオウルフ』や『アーサー王の死』の翻訳・研究を残した。父とは対照的な、地道な学者人生だった。「自由恋愛」を標榜して妻、神近市子、伊藤野枝の三人と派手な恋愛劇を演じたアナーキスト大杉栄は、辻潤との間に子をなしながら大杉のもとに走った野枝とともに、この震災の時に憲兵隊に虐殺された。
 それはそうと、白蓮事件の際に白村が示した「因襲的結婚だからうまくいかなかった」という論法は、秋子に関しては当てはまらない。そして白村もうすうす、恋愛結婚であっても、後に他の異性と恋におちるということはありうるということに気づいていたはずだ。波多野春房が「悪役」にされてしまうのは、永続的一夫一婦制と恋愛至上主義との間のこの矛盾を人びとが無意識的に回避したかったからであると断言してもいいだろう。何の落ち度もない、恋愛結婚した夫がありながら、妻が別の男と恋愛してしまうとしたら、恋愛至上主義の前に永続的一夫一婦制自体が解体されなければならないからだ。ひとというものは、結婚がうまくいかなかった時に、その原因は最初からあった、と考えたがるものだ。「因襲的結婚だったから」が通用しなくなれば「よく考えずに結婚したから」になる。手っ取り早いのは、結婚相手に落ち度を見出すことで、この操作によって人びとは、誠実に生きていても裏切られることはあるという事実から目を逸らすことができる。ただしそういった問題が本格的に議論の俎上に上るには、大正期のこの当時は世間にまだ「因襲的結婚」が多すぎた。
 張競の『近代中国と「恋愛」の発見』(岩波書店)の第4章は、與謝野晶子の「貞操は道徳以上に尊貴である」が一九一八年、周作人によって「貞操論」として漢語に翻訳され、『新青年』に掲載された際に起きた論争を扱って興味深い。これは恋愛結婚絶対論とも言うべきものだが、儒教道徳が根強く残るシナで反対論が盛り上がったのは当然のことながら、論争の口火を切ったジャ−ナリスト藍志先は、翻訳を受けて書かれた胡適の「貞操問題」に対し、手紙の形で反論を寄せたのである。これも『新青年』に掲載された。張競訳によれば、「いわゆる自由恋愛は、一緒になるのも、別れるのも簡単である。感情というものはつねに変化しているから、恋愛の相手もそれにしたがっていつも変わる。一生の間に何回恋人を変えるかわからない」と藍は言っている。胡も周もこれに反論したのだが、張氏によれば、藍は西洋文化も熟知していたため、論理の筋が通っているが、結論が乱暴で馬脚を表している、としているが、この、恋愛の上に結婚はなされなければならないなら、生涯離婚をくりかえすことになるだろう、という議論は、今日においても強力であって、張競著を見るかぎり胡も周もこれにうまく答えていない。もっとも私は『新青年』所載論文を読んでいないので確たることは言えないが、少なくとも與謝野晶子に関して言えば、生涯鉄幹(寛)に恋し続けた晶子は、自分が特殊な例だと気づいていないか、自分にできることは他人にもできると思っていたか、である。シナ出身の評論家、林語堂は、『蘇東坡』(講談社学術文庫)で、親が取り決めた蘇東坡の結婚を叙述しながら、恋愛結婚などより親が決めたほうが間違いがなくていいのだ、という意味のことを書いていた。林はこの「貞操論争」の四年ほど後、一九二三年に二十八歳で北京大学教授になり、その四年後には外務大臣に就任、一九三六年には米国に移り住んだ、むしろ西洋派の人文学者で、『蘇東坡』は一九四七年に英語で書かれたものだが、その林が、自由恋愛、恋愛結婚反対派だったのも、興味深いことである。

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近藤典彦が依拠した石井茜が依拠した峯岸千紘の論文「樋口一葉たけくらべ』ー三の酉の日の美登利」には、16歳でなければ娼妓になれないということが記してある。しかし峯岸は、森鴎外のように年齢をごまかして大学へ入った例もあるから、美登利が年齢をごまかされていても不思議はない、と簡単にあしらっている。
 (小谷野敦