学問の裏道

 何かを調べていて、よく知らない人の論文に当たったら、私はまずその著者について調べる。素朴に学問を信じている人からしたら、そんなの不要だと思うだろうが、これがそうでもないし、実は多くの学者がやっていることである。というより、たとえば近世文学が専門なら、これは誰々の弟子だなということを最初から把握していて論文を読むだろう。
 人文学の論文などというものは、ちょっとした表現ひとつでニュアンスが違ってくることがあるから、その著者の経歴を知っていると、ああこの人はこれ学派出身だからこっちへバイアスが掛かっているな、と分かるのである。分かりやすい例でいえば、田中優子がなぜ『週刊金曜日』の編集委員になってしまったかといえば、広末保の弟子だからである。広末は左翼であり、実証的というより文藝評論的な学者だった。しかし近世文学の世界では、まず翻刻・注釈・本文校訂などをして40、50になるのが普通で、しかし田中は翻刻などしたことがない。いきなり才気溢れる評論的論文を、上田秋成などについて書き、文藝評論たる『江戸の想像力』を出してスター学者になったから、近世文学会では異端になってしまった。そこを、気に入って救ってくれたのが、芳賀徹であり、だから田中は比較文学会に入り、芳賀の恩顧を得た。ところが芳賀はもちろん保守派である。広末と田中の間には亀裂が入る。「江戸ブーム」を、高度資本制下でのものとして批判する広末の前に、田中は苦悩し、そのうち広末は死んだ。
 そして遂に、死せる広末の圧力が、田中をして『カムイ伝』に向かわせ、左翼に先祖返りしていったのだ。
 でもそれは特異な例だろうと言う人もいよう。しかし、『源氏物語』を、紫式部が書いたものと見るか、藤原定家が整備したものと見るかも、学派によって違ってくるから、この人がなぜこんなことを言うのかというのは、その辺から見ていく必要がある。
 あるいは、田中康二という人の、『村田春海研究』では、「源語提要」というのが村田の著作になっているが、実際は五井蘭洲のもので、中村幸彦もそう書いている。なんで田中がそんな基礎的な間違いを犯したかといえば、師匠の野口武彦が間違えていたからである。
 そういえば、古典文学界の俊英といえば、いま国文学研究資料館にいる小川剛生だろう。三角先生が東大を定年になったら小川氏が行くこと間違いなし。

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インターネットの検索機能とデータベースの充実のおかげで、それまでなかなか分からなかったことがすぐ分かるようになった。何しろ2002年頃まで、国会図書館のOPACは戦後のものしか検索できなかったのだから、それが明治期まで遡及したのは画期的で、先日、これを使えばすぐ分かるものについて、分からないと述べている2001年の文章に出会った。
 もっとも、逆に、間違った情報の伝播も時に早い。あと未発達なのが、メロディーから曲名を突き止めることで、だがこれも考えてみたら、自分で歌って「これ、何て曲でしょう」と掲示したら教えてもらえるシステムができるだろう。
 『セーラームーン』の主題歌は、初めて聴いた時に、これは新しい曲じゃないだろう、と思ったが、倍賞千恵子の「さよならはダンスの後で」のパクリと言われているらしい。しかしもっと全体に、ラテン系の音楽が入っているのだろうが、その「…系」とかいう、クラシック以外の音楽の系統が私にはよく分かっていない。私が中学生の頃、高校生向け古典のラジオ放送の後で流れていたフルートの曲がいかにもバロックだったので、テレマンあたりを探してみたが見つからないから、作曲家がバロック風に作ったものかもしれない。
 あと、これは絶対何かのパクリか系統だと思う曲があって、たとえば『ジャイアント・ロボ』や『大鉄人17』の副主題歌。『風雲ライオン丸』の副主題歌はカントリー風だろうが何か特定できそうだ。あと石原慎太郎作詞、山本直純作曲の「さあ太陽を呼んでこい」って「みんなのうた」でやっていた曲も、何か系統がある気がする。

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 こういうのはあるが、今のところ歌謡曲だけなのであまり私には使えない。

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かつて「史上最低の評論家」と評した荷宮和子が、毎日新聞3日朝刊の「新聞時評」でまたおかしなことを書いている。ローマ帝国では紀元前から復讐を否定しており、罰は神が下すものだと考えられていたという記事に対して(これがどの程度本当かは知らない)「日本人の多くは無宗教だが、なればこそ『人間が人間に罰を下すべきではない』=『国家が実行しうる刑罰は更正刑のみである』という価値観になじみやすいのではないか」として、要するに新聞はちゃんと死刑廃止を書けと言っているのだが、論理がまったく分からない。日本人の多くは無宗教? まあ一歩譲ってそうだとして、どうしてそこからキリスト教と同じ「復讐するは我にあり」が導き出せるのだ。こんなアホ文が新聞に載ること自体を批評したいよ。
 実は私は荷宮から分厚い封書を貰ったことがある。『江戸幻想批判』を出したあとで、実際遊女や遊廓の美化には私も怒っていますという手紙があって、自分が書いたもののコピーがたくさん同封されていた。しかし、それを読み始めて私は少々唖然とした。そこには「男たちは遊廓・遊女を美化し」とばかり書いてあるのだ。あの、佐伯順子って男ですか? (この後に一文付け加えたいところだが、それはいくら何でもあれなのでやめておく)私はいくら何でも、中には佐伯さんへの言及もあるのだろうと、多量のコピー全部に目を通したが、すべて「男たちは」であった。一応お礼の手紙くらい書いた気がするが、何なんだろうこの人、と思ったものである。

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アマゾンで「お取り寄せに3−5週間かかります」とあるのは「来ない」という意味であることは、多くの人が知っている。たいていは一ヶ月くらいして「まだ確保できておりません」といったメールが届き、そのあたりでキャンセルするのが普通だ。しかし、キャンセルしないとどうなるのか、いま試している。去年の七月に注文してまだ来ていないから、そろそろ公正取引委員会に、不当表示で通告しようっと。

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吉川英治文学賞奥田英朗というのが不思議だ。いや作品は読んでいないのだが、吉川賞は、60、70代の重鎮大衆作家に与えられる賞で、直木賞から五年、48歳というのは異例である。宮部みゆきも取っているが、これは圧倒的な人気があるし、直木賞からも十年たっている。そんなに人材がいないのだろうか。志茂田景樹村松友視、西木正明がとっていない。SFは例によって対象外だが、逢坂剛椎名誠船戸与一高樹のぶ子連城三紀彦藤堂志津子北村薫佐々木譲桐野夏生高村薫小池真理子と、とっていない作家はそれより上にたくさんいる。村松は確かに最近小説を書いていない。藤堂さんも昨年は新刊が出ていない。高村もない。西木は悔しいだろう。藤堂さんに昨年力作があれば…。