恥ずかしい話

 前に予備校時代のことを書いたが、これはそれ以上に恥ずかしい話である。だから書いたことがない。
 ある女子に執着していた。しかしある時、その女には決まった男がいると聞いた。私は、それを認めたくなかった。だから、それは何かの間違いに違いないと、脳内で合理化した。それはたとえばかくかくの話が間違って伝わったに違いないとか、見ていて絶対そんな風に見えないとか、である。
 ほどなく私は、精神を病み始めた。恒常的な吐き気に悩まされるようになった。そんな状態で半年ほどが過ぎ、私は別の女性を好きになった。そして病気は次第に治っていった。最初の女に男がいたというのは、事実だった。
 それだけが原因ではない、とも言えるが、こんな風に脳内で事実をひん曲げれば、精神を病むのは当然だ、とその時思った。

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『一冊の本』では四方田犬彦の連載が最終回を迎えている。フランク・ザッパとかいう音楽家に関するものだが、もちろん私は知らない。冒頭から、大学院の一年上で、ケージと能楽を比較している典型的な東大生、というのが出てきて、「日本人にはブーレーズは理解できない」というのが口癖で、四方田は密かに「ブーレーズのスネオ」と呼んでいたとある。
 一年上というのは二年上の間違いか、単に変えただけか知らないが、これは岩佐鉄男・東大教授である。未だ一冊の単著もない…(駒場学派の歴史・補遺)
(付記)吉田秀和先生の、私が学生時代から愛読している『LP300選』がちくま文庫から『名曲300選』として出た。が、最後についていたLP案内は遂になくなってしまった。私は、最新のCD案内がつくことを期待していたし、もし吉田先生が高齢でできないというなら、解説を書いている片山杜秀が作れば良かったのである。だが、現代音楽など、もうその文庫版が出て数年たつうちにどんどん廃盤になるというありさまで、つけても意味がないように思えるのは分かるが、たとえば「主なき槌」というブーレーズの曲など、今では原題で「ル・マルトー・サン・メートル」で出ているから、そういうことを注記してくれたほうが良かったと思う。ウィキペディアなどでやたらISBNをくっつける奴がいるが、本などというのは書名と著者名さえあればだいたいすぐ分かるもので、不要であろう。もしそれで分からない自費出版本などであれば、ISBNがついていても入手するには技術が要る。だから本来なら、CDにISBNのような番号をつけるべきなのである。

 田中貴子さんの方は、「秀雄と秀雄」と題されて、源実朝を論じた小林秀雄に、それを批判した小田切秀雄を対置させて「若き日の小田切は元気よすぎる」と書いているが、違う。小田切は最後まで元気だった。
 ところでどうでもいいことだが、小田切の『現代的状況に抗する文学』のあとがきの最後に、鴎外の「ル・パルナス・アンビュラン」に引いてある「私は私の杯で呑みます」という言葉を示す、と言っているが、それは「パルナス」ではなくて「杯」であろう。

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http://d.hatena.ne.jp/my_you/20090222/1235334232
こういうことを言うやつがいて(コメント2)、私は宮下に負けた覚えはないのに負けた負けたというやつがいるのはそういうことだったのかと初めて理解した。学問上の問題を人気で決められてはたまらんが、世の中はそういう風にできていることくらいは承知している。もっとも大学二年という若さでそんな価値観を受け入れているのは嘆かわしい。いや、若い奴のほうが頽廃しているのか?

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オタどんに教えられて『婦人公論』を見てきたら、仲俣暁生さんが『里見伝』の書評を書いてくれていた。仲俣さん、ありがとうございます。水村美苗って困ったやつですね〜、とわざとらしく。

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わしズム』最終号で、佐藤優小林よしのりの戦いの模様が描かれている。しかし気になるのが、佐藤が提訴をちらつかせたのに対して、言論にはあくまで言論で、と『SAPIO』の欄外で書かれていることで、小林は人気漫画家だから佐藤の圧力を撥ね返して連載を続けることができたが、岩波の某社員のように非力な人だったら、言論には言論でとは言えないのではないか、ということである。