ドナルド・キーン何をした

 ドナルド・キーン文化勲章を受章した。しかしこれは、日本文学を海外へ紹介した業績によるもので、キーンが日本文学研究において何か業績があったからではない。単独で日本文学史を書いたというが、それなら小西甚一だってやったし、やろうと思えばやれる優れた国文学者は何人もいる。しかし日本の国文学界では、自分の専門の時代以外のことをやったりすると「侵略」などと言われるので書けないだけ。小西は国文学界の異端だったからできただけ。
 日本文学の英訳にしたって、キーンは谷崎と仲良くしていたわりに、谷崎の長編なんか一つも訳していない。『細雪』を訳したのも、『源氏物語』を訳したのもサイデンスティッカー。実はサイデンのほうが偉い。しかしキーンは社交術に長けているから得をした。若い頃は美青年だったので、年をとってホモッ気の出てきた谷崎先生にもかわいがられた。日本では日本文化を持ち上げるようなことを言って、米国へ帰ると日本批判(主として過去の軍国主義)もしていた世渡り上手のキーン。
 日本人の国文学者で文化勲章を貰った人なんて、市古貞次しかいないが、それだって『国書総目録』を編纂したという業績によるもの。しかしてその実態は、院生にやらせた・・・だろう。
 平川先生もキーンが嫌いらしい。もう四十年ほど前にキーンが東大で講演をした際、黒板に「traduttore, tradittore」と書いた。しかし後者「裏切り者」はttではなくt一つである。その時、ロシヤ文学の木村彰一が、平川先生のほうを意味ありげに見て、講演が終ると、「あの男は無知ですな。話の枕の引用ぐらいきちんと書けても良さそうなものだ」と苦々しげに言ったという。それでも平川先生は、黒板の前で緊張したのだろう、くらいに思っていた。ところがそれから三十年たってキーンがコロンビア大学を退官する際の記念論文集が出て、そこでキーンの弟子のレベッカコープランドがキーンを讃える文章で、やはり「tradittore」と書いていた。平川先生は、「この師にしてこの弟子あり。三十年間誰も教えなかったのか」と憤懣を覚えたという。
 これは先生のエッセイ集『日本をいかに説明するか』(葦書房)に入っているが、葦書房は××××社長のおかげで潰れたも同然・・・。それはいいとして、最後に平川先生は「わが国の論壇や文壇には、日本に関心を持つ外国人学者にすぐ関心して、ちやほやする人が多いが、スポイルしてはいけない」と書いている。おっと平川先生、先生もラフカディオ・ハーンをちやほやしていませんか、と切り返したくなるところだ。ハーンなんて英語の教材にいいだけで、作家としては二流、三流。
 (小谷野敦