鈴木堅弘の珍妙な注のつけ方

 国際日本文化研究センターの『日本研究』38号が届いた。私の「岡田美知代と花袋「蒲団」について」も載っているのだが、これは『リアリズムの擁護』に入れたものとほとんど同じだ。しかしこれは投稿・査読論文ではなくて、鈴木貞美研究会から、既に発表したものでもいいから出せと言われて、『リアリズムの擁護』が出る前に提出したものである。ほかの人たちも、既発表のものを載せていたりするので、「二重投稿」とか言わないでね。もっとも、単行本よりも、こういう学術誌のほうが、大学によっては入手しやすかったり、多く人目に触れたりするものだ。『現代詩手帖』の大塚英志の連載は、柳田國男に関しては勉強になったが、結論はよく分からなかった。ただ花袋記念館が出している『田山花袋柳田國男書簡集』を参照しているのに、なぜ『「蒲団」をめぐる書簡集』を見なかったのか、ちと疑問である。あといきなり私の名前が出てきてびっくりした。単行本にする時は『リアリズムの擁護』をレファレンスにしてね。
 ところで巻末の筆者紹介欄で、他の人はもちろん「××大学院」とか「××大学」なのだが、私は「作家」になっていて驚いた。自己申告したのだろうか。しかもその英文表記が「novelist」である。「author」なら、米国では所属のない学者のことをこう書くことがあるからいいが、novelistとは驚きだ。いやどうでもいいのだが。もう、どうでもいいのですよ・・・。

 さて、その『日本研究』の巻頭論文は、鈴木堅弘の「海女にからみつく蛸の系譜と寓意」である。この人は日文研の院生(総合研究大学院。博士課程のみ)らしい。例の北斎の海女図に関するものだが、私はまず注を見て驚いた。たとえば、(19)阿部泰郎「『大職冠』の成立」(吾郷寅之進、福田晃編『幸若舞曲研究 第四巻』三弥井書店、一九八六年、八二頁)とある。ところが、次の注も、その次の注も、ページ数が違うだけで、「阿部泰郎「『大職冠』の成立」(吾郷寅之進、福田晃編『幸若舞曲研究 第四巻』三弥井書店、一九八六年」と繰り返されているのだ。普通「阿部前掲論文」だろう・・・。結局この書誌情報はこの注で五回繰り返されている。ほかにも同じような例がある。(29)『鹿の巻筆』(「湯屋の海士」)(貞享四年〔一六八七〕)(小高敏郎校注『日本古典文学大系第一〇〇 江戸笑話集』岩波書店、一九六六年、・・・」とあるのが、次の注でもまるごと繰り返されているのだ。何だか、いくら扉を開けてもまた扉という悪い夢でも見ているようだ。
 これは査読論文である。査読者は、こういう繰り返しはしないで「前掲」で処理せよと、なぜ言わなかったのか、また指導教員はなぜ注意しなかったのか。昔と違ってコピペで済むからこういうことをするのか、それで論文の量の水増しでも図ったのか。
 論文の出来はどうかというに、これがまた不要に長い。だいたい、前置きが長すぎる。歌舞伎などの「世界」と「趣向」なんて、この種の論文を読む人には自明のことがらなのに、いちいち解説している。そういう解説は、もし著書にでもすることがあったら、その時つければよろしい。服部幸雄の恐るべき簡潔な論文作法を見習え。
 また、「蛸と海女」の図像が北斎以前からのものだとする本体は、もし先行研究がないのであれば、まあよいだろう。だがその枠組として、春画をポルノグラフィーと断定する論を批判的に捉え直すなどとしているが、それは誰が断定したのか、タイモン・スクリーチならそう書いておかなければダメ。かつ鈴木は、この図像には「笑ひ」の要素があると論じ、「春画艶本が『笑ひ』の文化と共に成立していることはすでに先行の研究でくり返し指摘されてきた」とするが、その議論も成立しない。まずこの箇所についている注は、『浮世絵春画を読む』の白倉敬彦の文章を示しているが、「くり返し」指摘されてきたと白倉が書いているのか、それとも「くり返し」と言いつつ一点しか示せなかったのか。
 白倉は、学者ではない。早大中退の、単なる低レベルな評論家である。私に論破されて逃げ出したやつである。しかも、春画は「笑い」の文化だという説は、張形を「笑い道具」と呼ぶことから言っても、直接「笑い」を意味するのではなく、エロティックなものに「笑い」をつけるのが近世のレトリックである。さらに鈴木は「ポルノグラフィー」を定義していないから、私が『日本の美学』の書評で、白倉らを批判したのと同じ過ちに陥っている。春画にはさまざまな仕掛けがあるという、しかしポルノグラフィーにだってさまざまな仕掛けはあるではないか。
 近世の俗文化は「うがち」「ちゃかし」「ずらし」などにある。鈴木は単にその話を春画に適用しているだけで、結語に言うような「春画艶本文化の新たな見方をここに提示することができたにちがいない」というのは成り立たない。新たな見方などというのは、博士課程の院生程度が提示できるものではないのだ。恐らく指導教員は早川聞多だろうが、早川の論理の弱さが弟子に受け継がれている。私が査読していたら、徹底修正させただろう。
 いったいこの鈴木なる者、どこの大学から来たのかと思ったら、京都精華大学大学院修士課程とあって、あんな低レベル大学に大学院があることに驚いた。というのは嘘だが、なるほどと納得したのは事実である。こないだ竹内洋先生の『学問の下流化』という新刊を買ってきたが、これなどその一例だろう。