大野晋と石光真清

大野晋が死んだ。タミル語起源説では、批判に対してもちゃんと答えようとしていたし、誠実な人ではあるが、信用できないウィキペディアを覗いたら、この人が学界の異端であることが分かっていない人が編集したみたいだった。国語学界での大野晋といえば、一般向け新書をベストセラーにしたり、タミル語トンデモ説を唱えたり、丸谷才一との対談本で賞を貰ったりする単なる通俗学者でしかないのだよね。だから学士院会員でもないし、文化功労者ですらないし、大仏次郎賞も朝日賞もとっていない。もちろん、これらをとっていない優れた学者、あるいはとっているがインチキ学者というのはいるが、大野の場合は、まともな業績がないからとっていないだけだろう。しかし、『光る源氏の物語』って、従来の説を紹介しつつ駄弁を弄したつまらない本だったけど。

 こないだの『考える人』で、石光真清の手記を紹介していた人がいた。中公文庫に入っている『城下の人』から『誰のために』まで四冊は、私も二十年くらい前に読んだ。呉智英さんが勧めていたからだ。しかし、どうも面白くなかった。ブラゴヴェヒチェンスクでの虐殺のあたりは、記録として意味があるのだが、全体として、面白い自伝という感じがしない。一つには、真清の手記を、子供の真人が現代語に書き直しているため、古いものの味わいが出ていないせいもあるのだが、もう一つは、呉さんが「近代の暗部」というような紹介をしていて、これを原作の一つとして、大河ドラマ獅子の時代』が作られたのだが、何しろその当時から、近代といえば諸悪の根源みたいに言う連中がどしゃどしゃ出てきたので、「近代の暗部」と言われても、うーんよくある話だよねえ、としか思わないのである。
 こういうことはほかにもあって、1950年頃に、スターリンやら中共やらを批判した文章を読むと、へえずいぶん遠慮して書いているなあと思うし、1970年頃に北朝鮮を批判した本を今読んでも、当たり前じゃん、としか思わないだろう。
 (小谷野敦