教育的指導

http://d.hatena.ne.jp/kasegi/20080417
 どうもこういうわけの分からん奴らがいるので、分かりきったことだがあえて教育的指導をしておく。
 どうやら世間には「小説家」と「文藝評論家」を対立関係に置いて考えたがる人がいるようだが、
 「小説を批評したり悪口を書いたりするのは文藝評論家である」
 という命題は偽である。正宗白鳥だって川端康成だって大岡昇平だって高見順だって文藝批評はした。ただ吉岡栄一の『文芸時評』(彩流社)が言うように、1980年頃から、作家による批評はもっぱら褒め批評になっていき、今では仲間意識からか、あまり批判的なことは言わなくなった。文藝評論家対作家という構図を広めたのは筒井康隆で、『虚航船団』を栗本慎一郎に「つまらない」と批判されたあたりから(別に栗本は文藝評論家ではないのだが)、主として渡部直己糸圭秀実を論敵としてそういう構図を浸透させたのだが、かつて直木賞を筒井に与えなかった選考委員は全員、作家である。
 とはいえ、小説を発表したことのない者が『小説の書き方』のような本を書くのも、渡部・糸圭が始めたことであり、これはさすがにいかがなものかと思う。かつて駒田信二の小説教室が有名だったが、二流とはいえ駒田は小説を発表していたのだ。あるいは、芥川賞をとったこともない者が、『芥川賞のとれる小説の書き方』などという本を書いているのは実に噴飯もので、それなら自分でとれよと誰もが言いたくなるだろう。
 次に、文藝の批評などをしていた者が小説を書くのは何も東や私に始まったことではない。初期に書いていた小林秀雄加藤典洋柘植光彦、あるいは平岡篤頼は別として、中村光夫臼井吉見江藤淳蓮實重彦池内紀などが書いており、日野啓三中野孝次も、批評から実作に移った人たちである。平石貴樹などは米文学者の東大教授ながら小説も書いている。そういう歴史を踏まえずに何か言うのはよせ。
 それから、これまで人の小説の悪口を書いてきたのだから、自分で書いた小説がダメだと一層ひどく非難されるべきだ、というのも、批評は作家もすることを考えればおかしいのは明らかである。むしろ私は、加藤典洋とか川村湊とかも、小説を書けばいいと思う。書いて、不評である苦しみを思い知って、それでもなお他人の小説は批判する、というのがよりフェアではないかと思う。 
 だから田中和生も、つまらん論争をしている暇に、私小説を書くといい。たとえ不評でも「それでも俺は批評をやる!」と言ったら少しは見直してあげるよ。仲俣さんも、書いたらどう? 高原英理は書いた。書いただけでその志を多とする。