大河ドラマの音楽

 しかし「篤姫」はひどいなあ。菊本が自害するのは、原作では、将軍家へ入る見込みと聞いたからである。だいたい、徳川時代の身分制というものがまったく視聴者に伝わらない。それからもう昔からのことだが、島津斉彬阿部正弘徳川斉昭が「阿部殿」だの「斉彬殿」だのと呼ぶわけがない。「伊勢殿」とか「薩摩殿」とか言うのである。忠剛だって原作ではちゃんと「安芸どの」と呼ばれているではないか。
 しかも斉昭の老中らへの罵詈雑言、御三家の当主といえども許されるものではない。「溜間の者ども」なんて言うわけがないのだ。忠剛は分家といっても一万石を超えるのだから大名格であり、かつ先々代藩主の実子であって、要するに斉興の実の弟、斉彬には叔父に当たるのだが、そういうことは隠されているし、そういう威厳がまるでない。妻だって、側室がいたのだが、そういうことも描かれない。あれでは家老以下だ。私は高校生の頃、長塚京三蟹江敬三に似ていると思っていて、あとになって、そうでもないかと思ったのだが、見ていたらやっぱり似ている。
 なお「大西郷」というのは、弟と区別していうのだ。区別する必要がない時に「大」はつけない。大ゲーテとか大シェイクスピアとか言わないのだよ。

 ところで八年前の『音楽の友』で、大河ドラマの音楽について文章を書いていた人がいて、当時私も大河ドラマの音楽についてエッセイを書いていたので、あ、先を越されたと思ったものだが、その筆者が片山杜秀だった。ちょうどその年は岩代太郎が大河「葵−徳川三代」の音楽を担当していて、その次には片山が岩代に取材して書いた文章が載っていた。当時私は、何だか普通のクラシックのようで、それほど秀逸な音楽かなあと思っていたのだが、最近、どうもこの曲が気に入っている。
 というのは、関が原の戦いに始まり、大坂の陣を挟んで、秀忠が死ぬまでを描いたドラマなのだが、それにしては曲調はパセティックですらあり、勇壮な合戦を思わせるものではない。そこがいいのだ。これはジェームス三木のオリジナル脚本だが、物語の切り取り方が、別種の『平家物語』を思わせる。徳川家の栄華への道を描くのだから、むしろ『栄花物語』のはずなのに、なぜか全編に、敗れ去る石田三成や豊臣家の悲哀のみならず、戦国時代の終焉、家康に対する秀忠の劣等感や、家光の屈折、そして「流れて還らない時」という主題が、このテーマ曲によって見事に統一されていると感じるからである。だから、ドラマと別個にいい曲かどうか、判断はできないけれど。