森まゆみ、よし

 小林君が言っていた、上野千鶴子に関する記事を探していたら、上野の新刊『おひとりさまの老後』の、森まゆみによる書評を見つけた。最初三分の二くらいは、適当に褒めてある。その後、

 不満もなくはない。「各種パートナーの在庫くらい、用途別にいろいろ抱えておくのもおひとりさまの心得である」「グチをこぼしたり、ごろにゃんしに行ったりできる相手をできるだけ早く見つけるにかぎる」といった表現に、なんか身勝手な私生活型合理主義のにおいをかいでしまうのだ。
 かしこい人たちの知縁社会で生きてきた著者と、地域をはいずってきたわたしの感覚の差だろうか。グチを聞き、自分の家でごちそうしてこそ平等互恵、あんまりちゃっかりした老女ばかり増えてほしくはない。いくら「21世紀はおばあさんの世紀」だといっても。

そうだよねえ。でも上野さんって、昔からこういう人。これでも婉曲表現で、「なんか」「におい」どころか、山梨に仕事場を持てる金持ち東大教授のたわ言としか言いようがない。

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週刊新潮』に、東大文学部教員に博士号が少ないと私が暴いたという記事が出ていた。いや別に暴いたんじゃなくて、調べれば分かることだが…。沼野さんと長谷川三千子先生のコメント。まあ、いずれも、実は無能な教授連がいることくらいよく知っていて、立場上言っているだけだから、話はかみ合っていない。だいたい、このお二人程度に業績があれば、別に博士号なんかなくてもいいのだ。博士号もなけりゃ単著もなけりゃ碌な業績もない、って教授がいるんだから。
 しかし沼野さんの「高砂親方朝青龍が指導できないというのとは違う」というコメントがおかしかった。高砂親方大関だ。とすると博士は横綱か。だが、元十両宮城野親方白鵬を指導していない。要するに元十両みたいな教授もいるってことだが、まあ東大でロシア文学で博士号をとって未だに定職もなく四十代になる人も4,5人はいる。沼野さんなんか、立派な著書があるんだから、東大でとればいいではないか。野崎歓だって、そう。長谷川先生は、自分のころの教授は、博士号を持っている方がどの程度いらしたか、と言っておられるが、出隆は持っていた。長谷川先生の頃の哲学の教授は、岩崎武雄、斎藤忍随、渡邊二郎らで、こんな立派な業績のある人たちなら、べつに博士号なんかなくたっていいのである。
 (小谷野敦