長らく更新されていなかったヨコタ村上孝之のウェブサイトだが、今年四月に、私への反論らしきものがアップされていた。

http://www.lang.osaka-u.ac.jp/~murakami/misc-J.htm
http://www.geocities.jp/larionyokotamurakami/misc-J.htm
http://www.lang.osaka-u.ac.jp/~murakami/koyano.htm

 反論は大いに歓迎である。しかし上のほうで「皮野厚」とあるのは、私のことなのだろうか。そうとしか読めないが、なぜそういう意味不明な変名を勝手につけるのだろう。しかも『比較文学比較文化研究』だって。『比較文学研究』のことか? 雑誌のタイトルさえ正確に書くことができないのか。最初の本では上野千鶴子の『近代家族の成立と崩壊』なんて書いていたし、根本的に杜撰な人間なのである。ここにも「加納文代」なんて書いてあるが、「加納孝代」である。人の名前まで間違えるのだ。

 次に、アマゾンのレビューに書いた批判内容は、『比較文学研究』86号(2005年11月)に掲載された「オリエンタリズム概念の功過」でより詳細に行ったものである。単行本『なぜ悪人を殺してはいけないのか』にも収録されている。少なくとも前者について知らないはずがなく、ならばヨコタ村上(以下、YM氏とする)はそちらに応えるべきものであって、いったいなぜわざわざアマゾンのレビューなど持ち出すのか。そちらに対する応答がないから、アマゾンのレビューを書いたのである。
 「われわれにできるのは、性的快感をめぐる言説のありようを検討することだけである」。「だけである」かどうかはともかく、ここで書いたとおり、普通に読んだのでは、『性のプロトコル』で「男はなぜコンドームを嫌がるのか」と問われていることの意味は分からない。私は、1998年2月ころに大阪で開かれた、比較文学会関西支部例会の席上で、YM氏と公開討論を行い、この点をただした。するとYM氏は、コンドームをつけてもつけなくても快感は変わらない、と言い、「ぼくは女房相手に実験したんだ」と言った上、「きみ、セックスしたことないんやろ」とまで言ったのである。紛れもないセクハラ発言であり、このような人物に品位云々を言われる覚えはない。実験したのが、言説のありようの検討なのか。
 江戸時代の銭湯については、前掲論文により詳しく書いてある。もしYM氏がデュルに対して異議があるなら、デュルの論文に即して論じるべきものである。「日本研究者ではない」などという言い方は、端的に差別的である。
 「現在の大学制度や学術的な「知」のありように対する懐疑の念」。私が問題にしているのは、『性のプロトコル』のあとがきで、学術的な書き方はしなかったと表明している箇所である。これを読めば誰だって、ならばなぜ博士号をとってそれを刊行したのかと問いたくなるだろう。
 「ぼくが比較文学という方法に対する否定的な考えを持っているという理由で、日本比較文学会から除名しようという工作を熱心にした」
 そのような事実はない。何度も言うように、YM氏が、代案もなく「比較文学をやめてしまえ」と書いたから、ならばなぜ日本比較文学会に所属しているのか、と問うているだけだ。これも先の公開討論の際に問うたが、YM氏は、比較文学会をやめようとしたことがある云々と言い出したので、ではなぜやめないのか、と重ねて問うと「人間関係が・・・」と口を濁した。日本人であることをやめることだってできるが、それでは食っていけないというかもしれない。しかし、日本比較文学会をやめることなど、簡単にできるではないか。「アイデンティティのゆらぎ」って、この人にとっては、比較文学会に所属している程度のことが、そんなに重要なアイデンティティなのか。
 私は、YM氏がやめないことを不服として、自分が比較文学会を退会した。その際、その理由を説明した書面を元会長などに送りはしたが、とうていそれは「熱心な工作」とは言えまい。私がしたのは、YM氏がセクハラ行為を働いた際、このような人物を学会の関西支部監事にしておくのはよろしくない、と全監事に手紙を送ったことだけだ。勝手に話を捻じ曲げないでもらいたい。
 アマゾンのレビューが営業妨害に当たるという疑念は、私も持っている。では、弁護士の数も多い訴訟社会である米国では、そのへんどうなっているのか、米国で博士号をとったYM氏にご教示願いたい。それにしても、国立大学法人から給料を貰っているYM氏が、文筆業である私にそういうことを言うのは何だかおかしな話だ。
 ところでそこに佐伯順子氏の著書への言及もあるが、同書が出た時、『比較文学研究』で徹底的な批判書評を書いたのは、当時村上孝之といっていたYM氏である。それが90年代に入ってから、どういうわけかYM氏は佐伯氏批判をやめてしまった。やめたのみならず、まるで仲間のように振舞い始めた。なぜなのか説明してもらいたい。
 私が独裁者になったら、というが、それはそうである。なぜなら、独裁者とはそういうものだからだ。
 「批評・批判が対話的に行われる、それが自由な学問の理想なのではないか。」
 その通りである。しかし、2005年11月に出た論文に反論せず、今ごろ、それをごく簡単に述べたネット上のレビューに、反論にもならない反論をしてくるYM氏こそが、そういう対話を阻害しているのではないか。
 YM氏は、別の著書『マンガは欲望する』で、夏目房之介からの批判に対して、まじめであることは必要ない、とデリダを援用してのまたしても珍奇なポストモダン的ごまかしをやっている。そういう人間に「マナー」だの「品位」だの「敬意」だのと言われるいわれは、相変わらずないと思う。それにしても「同じ学問を修める者への敬意」とは、「現在の大学制度や学術的な「知」のありように対する懐疑の念」をもつ人の言葉とは思えない。これなら、大橋洋一のほうがよほどまともだ。それにしても「比較文学などやめてしまえ」と言い、アカデミズムに批判的であるがゆえにアカデミックな書き方はしないと言うYM氏は、まさか「同じ学問を修める者」ではないのだろうなあ。
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 ところで依然として、自分の息子のオナニー観察の記述が載っているが、そういうことを公表するのは、立派な人格権侵害、児童虐待ではないか?
 (小谷野敦