金井美恵子はやはり素敵である

 日弁連が、著作権を五十年から七十年に延長することへの反対声明を出した。私の嫌いな日弁連にしては、今回はいいことを言っている。『一冊の本』12月号で金井美恵子もこの件について書いているが、金井美恵子久々のクリーンヒットである。米国で著作権を七十年に延長したのは、ミッキイ・マウスの使用権を延長したいディズニーが共和党政権に働きかけたからだというのはよく知られている、と始まる。私は知らなかった。冒頭から「そんなことも知らないの?」と冷たいまなざしを向ける金井節がマゾヒズムをくすぐって、素敵である。
 そして、日本文藝家協会が出した延長に関する声明文の文章をこてんぱんにやっつける。三田誠広が書いたようだ、とちゃんと書いてある。作家が死んだとき妻が30歳であれば、80歳になるころに著作権が切れるとか、子供は生きているうちに切れるとか書いてあるのだが、(以下金井の言いたいことと私の言いたいことはほとんど同じなので入り混じる)いったい、30代で死後も読み継がれる作品を書いて死ぬ作家などというのがどれほどいるか、ないしはその妻が専業主婦だとか、子供が30代で死んだ親の印税を当てに生きていくとか想定するのは、どういうことなのか。だいたい三田自身が、今現在印税で生活できているのかどうかも疑わしいし、死ねばたちまち作品は市場から姿を消すだろう。何しろ生きていたって消えてしまう作家のほうが圧倒的多数なのである。金井美恵子は嫌味たっぷりに書いていて、必読である。
 もう一つは、週刊朝日に書かれた斎藤美奈子の、金井美恵子について変なことを書けば作者にバカにされるから人は金井美恵子の本の書評をしたがらない、という文章を引いて、「変なこと」を書けば作者のみならず読者にもバカにされるのは当然で云々と書いている。たとえば私は金井美恵子を批判したことがあるが、「変なこと」ではなかったから、金井美恵子は何も言っていない。「プーチン首相」とか「ウェヴ上で」とか金井美恵子が「変なこと」を書けば私はバカにする。
 より正しいのは、「笙野頼子に対しては、正しい批判をしても荒れ狂う」とか、「大庭みな子や津島佑子を批判すれば、それが『変なこと』でなくても笙野が噛み付いてくる」というものだろう。
 それにしても、相手の名前を出さずに当てこする笙野輩とは、論客としての桁が違う。金井美恵子はいつでも堂々としている。石川淳が死んだとき、金井が太宰賞に応募した時石川が褒めてくれたから言わなかったけど、石川淳ってつまらないのよね、と言ったが、このあたりも、実にいい。高校生の頃、『夜になっても遊びつづけろ』の文庫版を暗記するほど読み込んだ金井美恵子は、やっぱり金井美恵子だったのだなあ、と感涙にむせんだ。
ところで、文学賞などの賞では、候補作が発表される場合と、受賞作だけが発表される場合とがある。前者でも、選考前に発表される場合と、受賞作発表と同時に候補作も発表される場合とがある。選考前に発表されるのが、芥川賞直木賞三島賞山本賞で、受賞作発表時に候補作も発表されるのが、谷崎賞大宅壮一ノンフィクション賞などである。そうなると自然、選評では候補作も評されることになる。
 谷崎賞の第一回からの選考委員だった大岡昇平は、第三回の選評で、受賞しなかった候補作を選評で評するのは失礼に当たることに気づいたので、これからはしないことにする、と書いている。これらの賞は、何も応募してきた賞ではないからだ。だがその後も、谷崎賞を含めて、受賞しなかった候補作への批評、時に批判は続いた。
 確か1989年、中上健次が『奇蹟』だったかで谷崎賞候補になって、落とされた。中上はそれまでも『地の果て 至上の時』で候補になって落選している。どうも谷崎賞は、富岡多恵子の『波うつ土地』のように、候補になって落選したものの中に名作がある。さて、『奇蹟』の時、選考委員の丸谷才一は、選評で、中上の文章を引用して、日本語としておかしいと批判した。
 その際異議を唱えたのが金井美恵子であり、大岡と同じ趣旨ながらより明確に、もし中上がその選評に反論したら、自作は受賞価値があると主張するようなことになって、反論しにくい、だから選評で落選作を評するべきではないと述べた。にもかかわらず、選評で落選作を評するのは相変わらずである。
 さて、坂東眞砂子の名を出さずに批判する笙野頼子は卑怯であると私は言った。反論しにくいからである。それに対して「新しいルールを作って押し付けるな」などと言っている笙野サポーターよ、同じように金井美恵子にも言えるかね?