谷崎潤一郎詳細年譜(昭和36年まで)

jun-jun19652005-06-24

(写真は谷崎お気に入りの祇園の藝妓・仔花)

1960(昭和35)年           75
 1月、「伊豆山放談」を『サンデー毎日』に掲載。
   『新潮』1月号から川端「眠れる美女」の連載が始まる。
   6日、恵美子(32)と観世栄夫(34)の婚約が発表され、マスコミが押しかける。 同月、千萬子流産か。 
   7日、熱海方面に大地震があるとの噂が伝わり、名古屋まで避難、その日帰ってくる。
   9日、「女中綺譚」の伊吹による口述再開。
   18日、一家で東京へ。長尾より書簡、セーターのお礼、恵美子婚約を週刊公論で知った祝。
   20日、鮑より書簡、周作人の漢詩を送る。
   22日、恵美子の結納。
   26日、香港徳成大厦鮑宛書簡、伊吹代筆、周の漢詩届いたお礼、周の住所知らせてくれ。
 2月、精二、文藝家協会から古稀の祝賀を受ける。
   1日、午後七時半から文化放送の「富崎春昇三回忌特集」で追悼談「春昇の面影」を放送。
   3日、千萬子より、心配かけた、落ち着いてきた、六万円ほど貸してほしい
   4日、墨彩堂熱海へ来る。長尾宛代筆書簡、寂巖の軸の写真、周作人の詩を貰って墨彩堂に表具させているので、墨彩堂へ行って見て、両方教えてくれ。鮑宛書簡、周住所お礼。
   7日、週刊読売の対談で近藤日出造来訪。
   11日、女中ものを「台所物語」と改題。
   12日、篠原治から速達、「関寺小町」を作曲したというので、推薦文を書く。
   16日、長尾より書簡、軸は難読。29日まで、「台所物語」筆記続く。
   19日、長尾宛代筆書簡、粥飯はシーファンのことではないか。
   25日、『夢の浮橋』を中央公論社より刊行。
   『週刊読売』3月6日号に近藤との「日出造見参『やァ今日は』」。
 3月1日、朝ひどい頭痛に襲われ、中沢の診察を受けた後、全身に激しい痙攣が起こって気絶。伊吹の友人の結婚披露宴で仲人をしていた沖中が、嶋中、伊吹とともに駆けつける。鮎子も来る。看護婦のみや子が記録し、のち『瘋癲老人日記』に使われる。滝井、井伏、小林秀雄、大佛、芸術院会員となる。
   2日、朝日新聞に谷崎の病気が報じられ、見舞いが殺到、広津和郎も来訪。
   7日、鮑宛書簡伊吹代筆、中国では高血圧の予防にクルミの実を使うそうだが日本のクルミは小さいので送ってほしい。長尾は、NHK中国語講座の東京外大鐘ケ江信光に粥のことを訊ね、返信を貰う。
   8日、墨彩堂から周作人の漢詩の表装ができてくる。
   10日、長尾より書簡。
   この頃、淀川、橘、後藤夫妻、高畠達四郎(66)一家、牧阿佐美(27)、大原永子らを招いて宴が開かれる。
   15日、川口宛書簡、恵美子の将来を頼む。(所在不明)
   19日、千萬子宛代筆書簡、病気で却って手が良くなった。たをり来るの楽しみ。
   21日、恵美子の結婚披露宴の招待状が刷り上がる。笹沼・喜代子・登代子・喜美子が熱海へ見舞い。
   23日、長尾宛代筆書簡、水飯が温かいなら、冷たい水掛けご飯は何というか。
   25日、招待状発送。
   29日、長尾宛代筆書簡、読書を禁じられていたので十日付手紙を二三日前に見た、お礼。
 4月、長尾は副校長に任じられる。英男、早大商学部専任講師。
   4日、胡桃届く。鮑宛葉書、クルミお礼。笹沼と入院中の土門拳(52)にもクルミを分ける。長尾宛代筆葉書、別便で粗品送った。
   9日、富士見町の警察病院の土門から礼状届く。外務省から電話で、ノーベル賞候補だとの知らせ。
   14日、千代子・登代子・喜美子が熱海訪問、恵美子への祝いの品持参。
   15日から、『少将滋幹の母』自筆本に署名始める。
   17日、大映痴人の愛』封切、監督木村恵吾、船越英二、叶順子。
   22日、恵美子、観世栄夫と赤坂のホテルニュージャパンで舟橋聖一夫妻の媒酌により挙式・披露宴。来賓は笹沼一家、津島、東野英次郎(54)、吉田健一(49)ら。司会は川口松太郎十返肇が交替で務め、篠原治作曲の「花の段」を疲労、地唄「寿」を井上八千代が舞う。夜は、新夫婦・谷崎・舟橋で宿泊。
 5月2日、長尾宛書簡、先般の唐墨は砂利が入っていたがそちらはどうか。松子より都をどりの観覧券三枚。
   熱海の映画館で『痴人の愛』観る。
   3日?『週刊公論』十日号に恵美子披露宴の写真多数。
   4日、松子より長尾宛書簡。
   6日、静岡大学助教授Hに足裏診断を頼み、この日来訪、足の裏の写真を撮る。
   9日、朝日新聞朝刊に、「作家は右を痛める」の記事出る。
   13日、サイデン宛代筆書簡、お見舞いお礼、近々京都へ行くので帰ってから来月上旬、小山いと子(609、娘婿観世を呼んで一席設けたい。長尾宛書簡、唐墨返送、代わりのもの送る。
   15日、近所の人を招いて恵美子披露宴。
   18日、松子と歌舞伎座昼の部で「伽羅先代萩」(梅幸)「六歌仙容彩」を観る。喜代子。千代子・登代子・喜美子と一緒に福田家で夕食。
   19日、千代子と喜美子を誘って日劇、多喜万利がお気に入り。ワシントンでビニールの靴を買う。
   24日、京都へ。
   25日、京都より千代子宛代筆、先日はお礼云々。
 6月4日、ソ連国立レニングラード・バレエ団、東京宝塚劇場で公演。
   5日、川田宛葉書、京都にいる、新村宅で貴殿の噂、これから石村亭見に行く。
   6日、都ホテルで恵美子の披露パーティー。
   7日、南座で、舟橋脚色の『少将滋幹の母』を観にいく。友右衛門、中車、寿海、仁左衛門。北の方役の友右衛門に扮装を注意する。
   8日、熱海へ。
   15日、安保改定の国会前デモで樺美智子死去。
   16日、松子重子と、大映本社での『鍵』試写会。その後新宿第一劇場で夜の部「恩讐の彼方へ」「彦市ばなし」「助六曲輪菊」を観て、沢村訥升(後の九代目宗十郎)の揚巻に感心(助六守田勘弥)、『瘋癲老人日記』に取り入れられる。
   17日、新宿第一劇場の昼の部「井筒業平河内通」「心中天網島」「権三と助十」を観る。お目当ては河庄。松子・重子・恵美子と笹沼邸か。夕刊読売新聞に石川雅章の奇術談が載り、阿部のことを思い出し、石川に問い合わせ。
   24日、大映『鍵』封切、市川崑監督、京マチ子中村鴈治郎。この頃、嶋中来訪。   25日(奥付)、世界名作全集『細雪』を筑摩書房より刊行。『新日光』に、新村出の、デコちゃん賛美の短歌七首。
 7月、自筆署名入り『少将滋幹の母』五百部刊行。「日本料理の出し方について」筆記。銀婚式を祝う。日中文化交流協会会長中島健蔵が北京を訪ねるに際し、田漢と銭宛の贈り物を託す。
  新宿第一劇場の最後の公演で、『恐怖時代』を観世栄夫が演出。扇雀、鶴之助、九郎右衛門、権十郎、菊蔵、田之助安藤鶴夫『寄席紳士録』(文藝春秋新社)刊行、読む。   5日、「阿部さんの場合」筆記始まる。
   7日、千萬子宛自筆書簡、昨日ハンドバッグ送った、銀座で松子に買ってきて貰った、これからは君にはなるべく自筆で書く。
   8日、千萬子より書簡、お礼、「オセロ」を見てきた、クロソウスキーの「ロベルトは今夜」が『鍵』に似ているというので読んでみたが違っていた。
   12日、千萬子宛書簡、短冊できたので送る。
   13日、千萬子より書簡、『少将滋幹』と短冊のお礼。
   14日、朝日新聞朝刊静岡版に、足裏健康法で谷崎が健康になったとの記事。
   25日、毎日新聞に「老いてますますさかん」の記事、丹羽文雄『顔』、円地文子『女面』を褒める。千萬子宛書簡、祝詞と手袋お礼、中公から中元貰ったので上げる。笹沼が検査を受けに行ったと聞いて鹿島登代子に電話すると、明日伺うと言われてギクリとする。
   26日、登代子伊豆山に来訪、笹沼が癌であると知らせる。
 8月7日、志賀から書簡、銀婚の祝いお礼、こないだの話どうなったか、前日電話貰えれば。
   8日付、銭から書簡、『源氏物語』漢訳の難渋。
   9日、阿部の件で質問をした向坂逸郎宛書簡。
   10日、「三つの場合(阿部さんの場合)」を『中央公論』9月号に掲載。
   12日、「岡さんの場合」筆記始まる。
   17日、『若い女性』の対談で叶順子来訪。
  この頃伊吹、NHKの奥屋熊郎宅で岡夫人に会い、詳細を訊ねる。
   18日、『婦人倶楽部』の対談で淡路恵子来訪。
   24日、「足にさわった女」(増村保造)封切。観て京マチ子が綺麗に撮れていると思う。 
   25日、銭宛、参考文献を送る。鮑から書簡。
 9月、「日本料理の出し方について」を『あまカラ』に掲載。角川文庫より『お艶殺し・お才と巳之介』刊行、解説・野村。
  精二、早大文学部長を辞す。
   3日、銭から礼状。
   12日、一高時代の恩師・杉敏介(89)の追悼文「敏介とビン助」を口述。
  『婦人倶楽部』淡路との対談「先生ベビーができました」   
   20日、「明さんの場合」筆記始まる。
   27日、午後八時からNHK第二放送「教養特集 文壇よもやま話」で池島信平(52、『文藝春秋』編集長?)、嶋中と座談会「谷崎潤一郎さんを囲んで」放送。
 10月、日本現代文学全集『谷崎潤一郎集(一)』を講談社から刊行。『向陵駒場』に「敏介とビン助」を寄稿。『若い女性』に、叶順子との対談「猫のような魅惑」。
   10日、「三つの場合(岡さんの場合)」を『中央公論』11月号に掲載。
  12日、「三つの場合(明さんの場合)」口述中、小瀧を電話で怒鳴りつけ、口述は中断。千萬子より書簡、「蒼き狼犬養健揚子江は今も流れている」など読んでいる、小児麻痺の注射の件。
  15日、軽い狭心症
   16日、心筋梗塞の発作に襲われる。
   17日、さらに強い発作に襲われ、上田英雄の指示で十月一杯自宅で臥床。キミが面倒をよく見てくれる(「台所太平記」)。四世中村富十郎死去(53)
   31日、舟橋聖一の大型の自家用車で東大上田内科に入院、主治医は桜井忠司。『週刊新潮』7日号掲示板に「お手伝いさん求む」の記事が出る。
 11月3日、佐藤春夫吉川英治文化勲章受章、七世坂東三津五郎文化功労者
   10日、「風流夢譚」掲載の『中央公論』12月号発売。
   19日、吉井勇死去(75)
  千萬子、吉井の通夜に行き、報告のため伊丹から飛んでき、羽田から飛んで帰る。
   24日、笹沼源之助死去(73)
   27日、病床で伊吹に「吉井勇翁枕花」を口述。
   28日、笹沼の葬儀、出席できず。吉井と初めて会った時同席していた松本重彦(87年生)がどうなっているか分からないので調べたら中央大学で教授をしていたとある。
   29日、宮内庁が「風流夢譚」を問題化。右翼が抗議。
   30日、建仁寺で吉井の葬儀。中央公論社、謝罪。
  同月、淡路恵子より手紙(「当世鹿もどき」)
 12月3日、千萬子宛書簡、週刊公論送った、お蔭でよいもの書けた。今度来るとき写真を持ってきて。
   5日、千萬子宛書簡、君の顔はふっくらして美しくなったので、なお写真が欲しい。
  「吉井勇翁枕花」を『週刊公論』13日号に掲載、樋口富麻呂の挿画。
   7日、登代子・喜美子、東大病院に見舞い。
   9日、宗一郎・千代子、見舞い。
 この頃病室でバケツの水をひっくり返し、それが階下の沖中内科にいた川端康成の部屋に落ちる。(伊吹『川端』)
   10日、千萬子より書簡、写真は写りのいいのがない。『谷崎精二選集』(校倉書房)『谷崎精二古稀記念英文学論集』(早稲田大学英文学会)刊行。
   12日、退院、銀座東急ホテルに宿泊。
   14日、夕刊に吉井の最後の言葉が「枕花」から引用された記事か。
   16日、『サンデー毎日』のためにホテルで島津貴子と対談。
   17日、千萬子宛書簡、お歳暮、二十日前後に熱海に帰る。
   24日、熱海に戻る。
  『サンデー毎日」1月1日号で島津との対談「よいお年を」    
  『週刊公論』1月2日号で大宅壮一と対談「虚頭会談・文豪と舌豪」   
   26日、和辻哲郎死去(72)
   27日、「親父の話」口述始まる。
   29日、医師桜井の長女の名付けを頼まれいくつか候補を挙げる。千尋と命名される。
   30日、青山葬儀所での和辻の葬儀に出かける。武者小路もあり。
 この年、石川淳『夷齋饒舌』(筑摩書房)刊行、読む。

1961(昭和36)年     76
 1月、「親父の話」を『東京新聞』に二日続けて掲載(頼尊が担当?)。終平が生まれた時に睾丸ヘルニアだったことが書いてあり、同盟通信に勤めていた終平は同僚に冷やかされる。「若き日の和辻哲郎」筆記。
 Howard Hibbett訳The Key, Knopfから刊行。
   3日、コロンビアのキーン宛書簡、鍵英訳送ってきた、読みやすい。近況、ハワイは行けない。ヒベットには会う機会を逸している、会ったらよろしく。安田宛年賀、『良寛』(安田監修、書、筑摩書房)貰ったお礼。
   7日、サバルワル宛ローマ字書簡。
   9日、川田宛葉書、中公で「葵の女」を無断引用したので送る。終平宛、「東京新聞」を二部送る。
   10日、「三つの場合(明さんの場合)」を『中央公論』2月号に掲載。
   14日、「若き日の和辻哲郎」筆記開始。お手伝い候補の娘が次々と訪れる。
   15日、淡路恵子出産。
   16日、古川緑波死去(59)
   18日、毎日新聞の野村尚吾が来るが、「台所太平記」は延期。
   19日、千萬子宛書簡、おめでたの由祝、12月14日の夕刊切り抜き送る、君の言葉のおかげで褒められた、祇園の中島さん気付で春勇にも送ってくれ、三月に来られないそうで残念。孔雀の扇15000円送った。
   21日、「はにかみ草紙」筆記開始。千萬子より書簡、今度はYMCAのガイド試験を受ける。
   25日、千萬子宛書簡、扇気に入って嬉しい、何でも買ってあげる。東京にも子供ができるが五月の君の子供のほうが楽しみ。ロアルド・ダールの「キス・キス」面白い、「あなたに似た人」とは違う、感想聞かせて。
   27日、「鹿の啼きごと」と改題。
   30日、『週刊公論』編集長に第一回を渡す。
 2月、「古川緑波の夢」を『東京新聞』に掲載。トキ次男出産。
   1日、右翼少年、嶋中宅を襲撃。
   2日、淡路恵子より手紙(「当世」)
   6日、深沢七郎、記者会見で謝罪。
   7日、「当世鹿もどき」と改題。
   9日、千萬子より、「キス・キス」届いた、伯父様にはどこが面白かったのか、冷酷で私は本格ものが好き。まだ心の傷。 
   10日、「若き日の和辻哲郎」を『心』3月号に掲載。デコちゃんから松子宛手紙で、新村出との交遊ぶりが描かれている(「当世」)。千萬子宛書簡、鍵英訳出たので送る。うちでは君以外に読んでもらう人がいない。
   11日、千萬子宛書簡、行き違いに手紙貰った、「キス・キス」の感想、君には天才的なところがある。
   13日、毎日新聞連載の舟橋『新・忠臣蔵』が切腹の作法に触れる。
   19日、千萬子より、エリンの「特別料理」届いた、洋裁学校の方で就職の口、「風流夢譚」の載った号送ってほしい。
   22日、千萬子宛代筆書簡、中公12月号は残部なし、恵美子の所に二冊あったので一冊送らせる。
   28?日、「当世鹿もどき」を『週刊公論』3月6日号から7月24日号まで連載、題簽武者小路、挿画は硲伊之助。
 3月、精二、早稲田大学を定年退職。
   2日、千萬子宛書簡、吉井未亡人が来て泣かれて困った。仕事を見つけたいというのはいいこと。「特別料理」春琴堂から送らせてくれ。
   7日、千萬子より書簡、先日は愚痴の手紙ごめん、「風流夢譚」読んだが嶋中がなぜああ低姿勢なのか分からない、秀典君に持っていった、友達仲間で読んでおかないと話にならない。エリンで面白いのはこれだけ、ダールの才能はない。中公の「世界の歴史」とってほしい。
   13日、千萬子宛書簡、「世界の歴史」は春琴堂に頼んだ。嶋中への意見聞かせてやる。君のオリンピック批判、男なら偉い人になっていただろう。松子が妊娠中だからというので来てもらうのは諦めた。
   23日、キーン宛書簡代筆、ニューヨークタイムスに鍵の書評お礼、こちらの新聞にも出た(22日朝日新聞「素描」)ので切り抜き送る。佐藤千代、竹田鮎子、笹沼邸訪問。   24日、志賀から葉書、茶の花漬けお礼。
   29日、清治、千萬子来て泊まる。
   30日、千萬子宛書簡、清治は今朝四日市経由で帰った。新村先生はどこに入院か。東大桜井の都合で4月18日第二こだまで上洛、20日石村亭に行く。「あなたに似た人」貸してほしい。喜代子・登代子・喜美子・千代子来訪、神田で寿司。
   31日、千萬子より速達、先日はご馳走になって、ベビーにもいいだろう、新村について詳細、「あなたに似た人」送る、18日に来てくださる由
  この頃、伊豆山で山火事。『細雪』の朗読録音。
 4月、日本文学全集『谷崎潤一郎(一)』を新潮社から刊行。
   精二、恵泉学園短期大学英文科教授となる。
   初旬、九州からヤスミとユミがお手伝いとして来る。
   7日、喜代子、福田家で会う。
   10日、恵美子男児出産、谷崎が桂男と命名。
   13日、千萬子より、千萬子抄の短冊届いた、出産の不安、準備しておくので。
   14日、喜代子・喜美子、熱海訪問。
   18日、こだまで上洛、桜井医師同行。
   20日、石村亭訪問か。この時、法然院に墓地を定める。
   25日、トキと夫、湯河原に土産物屋の春琴堂を開店。
   30日、『三つの場合』を中央公論社から刊行。
  下旬、キミが藤巻と結婚して熱海に所帯を持つ。
 5月、大道弘雄死去(74)
   2日、伊豆山へ帰る。京都府医大の山下が同行。この月、谷崎秀雄結婚か。 
   7日、千萬子より、その後いかが、今夜は原田・松本夫妻を呼ぶ。
   8日、千萬子宛代筆書簡、ピン入れ到着、女中の話どうなったか。
   9日、「臆病について」筆記開始。西巣鴨鈴木信太郎宛代筆書簡、田黄一個送った、文章はまだ纏まらないので石だけ。
   13日、千萬子宛代筆書簡、17・8日頃から新夫婦(秀雄)が関西方面へ一週間行く。重子も後から行く。その後私ら夫婦が行って半月ほど滞在、重子と一緒に熱海へ帰る。きみさんが結婚することになり、恵美子方で女中がいるので、誰かいないか。
   14日、志賀から葉書、「三つの場合」お礼、熱海の雑沓噂に聞いてなかなか外出できず。
   16日、喜多村緑郎死去(90)
   千萬子第二子出産するが十日で死ぬ。
   19日、春川ますみ日劇に出演、谷崎は御木きよらと一緒に来る。終演後、楽屋でますみの写真を何枚も撮る。
   20日、喜代子・千代子と永見寺。福田家。
   22日、橘、淀川来訪か。鈴木宛代筆書簡、高畠画伯から入院中と聞いて驚き、印材は急がないので手元に。
   24日、橘宛、一昨日は淀川にも遅ればせに会えてお礼、釈迦像お礼、観山の絵は子供時代に見たときほど感心せず、吉井、安田書簡は懐かしい。
   25日、志賀から葉書、先日はお礼、楼外楼のその座敷は冷房止められるそうです。六月なら三日前に電話くれれば。
   26日、舟橋宛代筆書簡、手紙お礼、久しぶりに上京して恵美子の赤ん坊を見てきた、祝いの品お礼、鹿もどきには六月末頃「新・忠臣蔵」が出てくる。
 6月、「『細雪』を書いたころ」を『朝日ソノラマ』に掲載。
  歌舞伎座筋書(六代目菊五郎追憶)に「若き日の六代目」を寄稿。『乱菊物語』『武州公秘話』の続編、『雨月物語』現代語訳の構想を練る。
   15日、千萬子宛葉書代筆、たをりの先生の名前住所教えて。 
   19日、鈴木宛代筆書簡、手紙拝承、昨夜高畠から電話で病気もよい由、「雪後庵」と白文でお願い、急がない。
   22日、千萬子より、苦しみを訴える手紙
   26日、鈴木から手紙。
   27日、鈴木宛代筆葉書、手紙拝見、もう一度案を練る。
   29日、鈴木宛代筆書簡、「雪後娥影」「雪後憑闌」でどうか。朱文で。墨彩堂宛代筆、吉井の書簡を額にして久保義治方へ届けてくれ。志賀夫妻を招いて辻留の料理。
 7月、「当世鹿もどき」最後に「政治に口を出さない」とあるのは「風流夢譚」事件を意識してのことか。
   4日、千萬子宛代筆書簡、時生ワクチンは泉田のところでは注射液しかないので阪大西沢のところで生ワクチンして貰って。清治が九州から帰ったら阪大で飲ませてもらってから熱海へ。原田氏から電話、書類は清治に渡したというので、なぜ恵美子のところへでも預けておいてくれなかったかと言って。月末おいで待つ。
   6日、千萬子宛代筆書簡、松子宛手紙拝見、ワクチンのこと急いで。家のことは弁護士を頼むのも面倒、いっそ手放しては。千萬子より書簡、ワクチン飲ませる。2日に京都ホテルで伊吹に会った。辞めて中公へ入るとのこと。
   7日、千萬子より速達、昨日ワクチンは連れていった。
   9日、千萬子宛代筆書簡、二十日頃京都で生ワクチンが飲めるならいいが云々。もう一通、ボリショイサーカスが恵美子宅そばであるのでたをりを連れていきたい、上京の日教えてくれ。
   10日、妹林伊勢(62)、訪日のためアフリカ丸に乗船。千萬子より、ワクチンの件は今日清治が阪大へ行って訊いた。たをりは来週連れて行く。清治は飛行機で福岡出張、留守がいないので私はいけない。
   18日、千萬子宛自筆書簡、今日は君に会えるのを楽しみにしていたので失望、たをりよりは君に会いたかった。座敷を洋間に直してソファーベッドにしたがこれに最初に君に寝てほしい。たをりいつ来られるか、君はどうしてもダメか。追ってもう一通、21日から恵美子が赤ん坊を連れて熱海へ来るがその間東京へ逃げる。しかし恵美子はベッドに寝かせない。秋まででも待つ。
   19日、千萬子より、自分が惨めだが、思い切って伺う。
   20日、千萬子宛代筆書簡、手紙拝見、月末には来る由、恵美子は栄夫が今月中に帰るというので今月一杯。
   21日、恵美子と赤ん坊来るか。上京か。
   25日、千萬子宛、中公からの中元。
   28日、千萬子宛代筆書簡、そちらにある硯石郵送かチッキで。
 8月、伊吹、中公本社勤めに変わる。『週刊公論』廃刊。伊吹、奥野信太郎を訪ねて宮刑について質問。
   4日、千萬子宛代筆、きみさんが京都へ行って一泊するので帰りの切符頼む。千萬子より、池田弥三郎『まれびとの座』面白かった。自分の無学が情けない云々。
   6日、千萬子宛自筆、慰め、たをりを十日ではなく17日にしたのは君の意思では。隠さず言ってくれ。月末待っている。
   7日、千萬子宛代筆、「潤」の印至急送って。
   8日、伊勢横浜港に着き、谷崎に電話。精二宅に泊まる。その後熱海を訪ね、得三が新和歌の浦で働いていて、老人ホームへ入れようと思っていると聞かされる。千萬子より、17日にしたのはたをり。ワクチンのこと心配。伯父様の回りの人々は耳に入れないようにしているので私とたをりはしない。17日切符とった。
   9日、「瘋癲老人日記」筆記始まる。千萬子より、清治に別れ話持ち出した、犬舎ができた。
   10日、千萬子宛自筆、よく分かった誤解だった。横山泰三の絵ができてきた。便所の設備不完全なこと君に言われてまた今晩あたり騒ぎか。観世家の人々は嫌いではないが恵美子が困り者。
   17日、たをり、女中と来るか。千萬子より、清治も九州へ飛んだので一人、扇子昨日着いた、24日こだまで行く。
  この頃伊豆山桃李境で円地と対談か。
   24日、千萬子来るか。
   29日、千萬子より、犬のこと。池部良淡路恵子『トイレット部長』封切。
 9月、『当世鹿もどき』を中央公論社より刊行、装幀挿画は横山泰三
   1日−25日の歌舞伎座夜の部に、伊勢を招待。「加賀見山旧錦絵」「寿口上」「親子燈籠」(村上元三作)「廓三番叟」、伊勢は、幇間半六を勘三郎、伜を勘九郎が演じたのを観て勘九郎の達者なのに感心する。
   11日、千萬子より、金を重子に貸したが返ってこないので困惑、貸してほしい。
   13日、千萬子宛代筆、現金書留、犬の話、金子返却無用。
   15日、千萬子宛自筆、先日の現金はばあちゃんたちが寝ている間に。私はあなたも重子も同じに好き。
  千萬子一家、九州旅行、阿蘇山など。 
   16、17日、「京マチ子」伊吹筆記。
   18日、「和辻君について」伊吹筆記。
   21日、宇野浩二死去(71)
   22、23日、「淡路恵子」伊吹筆記。
   25日、松子と笹沼一家で永見寺で笹沼の早めの一周忌。
   27日、神戸市東灘区深江の谷崎秀雄の家で、得三、伊勢、末、終平が顔を合わせる。千萬子より、旅行の報告、十月に東京行きは無理そう、清治だけは行くか。
   28日、千萬子より、犬舎の費用意外にかかった。
   29日、千萬子宛自筆、朝日朝刊の「女優さんと私」近日二日間私のが出る。清治が旅行ばかりするのはよくないので谷口さんに話してみる。
   30日、千萬子宛自筆、手紙拝見送る、おばあちゃんたちはカルメン見に行った。京都移住の件は不賛成でもない様子。
 10月より『潤一郎訳源氏物語』愛蔵版刊行、題簽松子、装釘町春草。『和辻哲郎全集』内容見本に「和辻君について」を寄せる。円地文子と対談「伊豆山閑話」『風景』
   1日、千萬子宛、『鹿もどき』送る。夏ちゃんのことよろしく、彼氏が来ても私が行くまで待つように。君とたをりと二人きりでいるのが心配。
   2日、千萬子より、三岸節子の息子の黄太という新人を発見。清治は30日朝帰り今晩また九州に「帰る」そう。
   3日、千萬子宛代筆、夏さんの着物お金は送る。三岸の絵見てみる。
   4日、『朝日新聞』朝刊に「女優さんと私・京マチ子」を掲載。
   5日、「淡路恵子」を掲載。この後『トイレット部長』を観たか。
   6日、午前三時、猫のペル死ぬ。剥製にする。
   7日、芦屋市の末の家で、伊勢、末夫妻、秀雄夫妻で夕食。
   8日、舟橋宛代筆葉書、今朝の東京新聞「こころ変り」に羽左衛門助六初演のくわんぺらは松助とあるが私は中公十一月号に仲蔵と書いてしまった。仲蔵がやったのはいつか。(明治39年は松助
   9日、千萬子より写真。舟橋宛葉書、仲蔵と書いたのは勘五郎の間違い(勘五郎改め仲蔵が出たのは大正4年。羽左衛門の初演ではない)
   10日、「瘋癲老人日記」第一回を『中央公論』11月号に発表、37年5月号で完結。千萬子宛代筆、昨夜熱海へ帰った。14日こだま四枚とった。ペル。
   14日、上洛か。この時京都ホテルで、千萬子が、老人を死なせるのはかわいそう、と言い重子松子も同意か。大映『お琴と佐助』封切、衣笠貞之助監督・脚本、山本富士子本郷功次郎。     
 11月、昭和文学全集(サファイア・セット)『谷崎潤一郎集』を角川書店から刊行。
   3日、川端康成、鈴木虎雄、堂本印象、福田平八郎、文化勲章受章。
   4日、千萬子より、デル・モナコの「道化師」見て感激、けれど二年前カルメンを見て同じように思ったのを思い出し自己嫌悪。銀閣寺の土地見てきた。いっそここに伯父様の家を建てては。二三日中にピカソ展いく。
   7日、志賀より葉書、『鹿もどき』お礼、メニエール病
  『群像』12月号の大岡昇平「常識的文学論」最終回に「老大家の老人性自慰小説がトピックである文壇の現状」とある。
  上旬、松子、江沢栄一らに見送られ、伊勢横浜港から帰途につく。
   10日、千萬子より、東京から電話かかると思っていた、ご機嫌でないようだったから。別の土地発見、見に行った。母など私を贅沢だと言う。
   11日、千萬子より、ブローチ届いた感激。
   14日、千萬子より、ボクシングの本送った、「サンセット77」はナイターで消えている、「ペリー・コモ・ショウ」も。サンセットは日本ではエロな所はカット。たをりの先生からは睨まれているよう。
   17日、千萬子宛代筆、山月から白ぐじ届いたので伝言頼む。
   19日、鮑宛書簡代筆、中公11,12月号送る。全集は来年五月に豪華本が出るのでそれまで待ったほうが。
   25日、千萬子より、29日第一富士で東京行き、たをりは高折の母に預け、八州子と。会えないかもしれない。
   29日、千萬子の汽車に熱海から乗り込み、東京で妹悦子、I嬢にご馳走。
 12月、池島・嶋中聞き手『文壇よもやま話(下)』(青蛙房)刊行。
  4日、千萬子より、感激。生きていたらまた恋をすることもあるでしょうか。
   6日、鮑宛葉書、北京の銅印は諦める。台湾にでも優秀な鉄筆家いないか。
   10日、伊勢、サンパウロ到着。
   半ば、山王ホテルに、松子重子と移る。
   19日、鮑宛書簡、手紙拝見、鉄筆家とは篆刻家のこと。
   20日、千萬子宛、鳴沢の家を建て替える、北白川にも仕事場を。ファミリアの件もあるので相談したい。
   27日、鮑宛代筆葉書、シャネル頂戴した、鉄筆頼んでくれてお礼、今年から年賀状やめた。
   31日、鮑宛書簡、手紙拝見驚いてシャネルの包み調べたら寿山石発見。
この年、 世界セクソロジー全集第4として、谷崎英男訳『性心理の分析』新流社より刊行(ヴィルヘルム・シュテーケル、マグヌス・ヒルシュフェルト)、この頃、英男、早稲田大学商学部に勤務するか。東大卒、修士号はなし。