谷崎潤一郎詳細年譜(昭和18年まで)

jun-jun19652005-06-15

1942(昭和17)年      57
 1月2日、日本軍マニラ占領。
   6日、志賀宛書簡、鹿児島の女中は戦争になったので東京へは行きたくない、他の女中も暇を貰いたがり思い止まらせるのに骨折った、じいやはあれからよそへ話ができかけているが取りやめにするよう努める、さて出版のこと里見君を煩わせて済まないが源氏完成後あちこちと約束しており順に片づけねばならず、里見と小山書店によろしく。
   16日、志賀宛葉書、やはり先約は取り消せず、女中は鹿児島へ帰っていた二人が戻ると四人になりその内一人は東京へ行ってもよいと言う、今月中に帰るよう手紙でかけあっている。
   23日、志賀宛葉書、先日小山書店来る、説明聞き了解、女中の件は当てにしていてくれ、もし他から雇い入れた際はお知らせ願う、他へ斡旋する。同日、渡邊重子宛書留書簡、切符制などだんだん不自由になる、埼玉県からいろいろ送って貰いお礼、清治の外套の代金封入、来月偕楽園へ上京と言った覚えなし、百々子の顔が見たいがもう少し温かくなってから。
 2月4日、志賀宛葉書、女中が全部帰ってきたので東京行きを申し渡すと国元へ相談するとの話しばらくお待ちを。
   6日、志賀宛速達書簡、女中国元から返事来て東京行き許可出た、名は林すみ米国生まれの二世、当家へ来てまだ二ヵ月、同人十日頃上京、渡邊宅に二三日泊まり明同行する。
   15日、シンガポールの英軍、日本軍に降伏。
   16日、JOAKより「シンガポール陥落に際して」朗読放送される。
   20日過ぎ、「シンガポール陥落に際して」を『文藝』3月号に掲載。
 3月1日、嶋中から荷風とともに鶯谷の塩原に招かれる。中公松下。
 同月、静岡県田方郡熱海町熱海ホテルに滞在。
   17日、恵美子発熱。
   21日、ホテルより松子宛速達書簡、返電拝見、恵美子満洲熱ではないかと案じている、熱海に家を持つのは定住にあらず万一の場合の避難所、また避寒地にも使える、竹田以外に親しくしたい親戚はなし、森田家渡邊家などで使ってもらえればよし、最近老年のせいか自分の死後のあなたの平和幸福のことが気になるが気にしてもしょうがないからやめ、用事も済んだので明日よりは、以下予定。重子宛書簡、恵美子発熱につき自分だけ先に来た。近々松子と一緒に来るが自分も風邪気味で三日ほど養生してから伺う。竹田方は女中がいなくなり佐藤のおじいさんも来ている。百々子の顔だけ見たい。26日歌舞伎切符とった。観劇後恵美子らと一緒に出て来月まであちらに滞在しては如何。我らは帰途熱海に立ち寄り月末までに帰る。(八木書店
   22日、松子、恵美子来るか。午前中熱海を引き上げ上京、佐藤老父見舞い、百々子訪問、偕楽園泊まり(書簡の予定によれば)
   26日、歌舞伎座で観劇、松子重子恵美子。羽左衛門菊五郎、「鏡山」「盛綱陣屋」。その晩か翌日の汽車で熱海?
   佐藤豊太郎死去(78)。
  英男、水戸高校卒業。
 4月、熱海市西山五九八番地に別荘購入、もと嶋中が借りていたもの。
  英男、東京帝大文学部独文科入学。
   18日、午前十一時半の汽車で東京から熱海へ向かう。その直後、B25ドゥーリトル隊が東京・名古屋・神戸を空襲、神戸は三箇所で焼夷弾投下。
   21日、渡邊夫婦宛速達、空襲の感想は如何、一汽車遅れていたら川崎辺でスリルを味わえたものと少し残念、神戸も空襲あり様子次第で一先ず住吉へ帰るか留守宅より便りを待っている、明に買ってもらった脇息は具合よし、防空作業で多忙の折りキヨさんを長く借りていて申し訳なし、この家は灯火管制してなく三人で奔走、終わったら熱海見物させて昼の汽車で帰す。
   30日、大阪市水野方森田勝一宛書簡、留守番のお礼。
 5月1日、反高林より重子宛速達書留、先日空襲の際一人とは知らず失礼、当方両人六日のサクラで熱海へ、同日なつ(女中)に新橋発伊東行で別荘に行っているよう伝えてほしい、脇息、卵、バタ、ゴマ、砂糖、米持たせください、9−11に歌舞伎誘いますが菊五郎出演なければ止め、今度は重子と清治と交代でお出で。
   9−10日、歌舞伎座か、菊五郎娘道成寺、水野十郎左衛門で出演。
   11日、萩原朔太郎死去(57)。
   15日、佐藤惣之助死去(53)。
   26日、日本文学報国会が創立され、小説部会名誉会員となる。
   29日、與謝野晶子死去(64)。
 6月から9月まで「初昔」を『日本評論』に連載。
 6月から11月まで「きのふけふ」を『文藝春秋』に連載。
 6月5日、ミッドウェー海戦
   21日、志賀宛書簡、先日小山書店より元気の由聞きました、さて先日より妻胆石で住吉の家で寝ている沼津の医師は遠方から行く価値あるか、苦痛ではないか、23、24日は表記のところ(不明)に宿泊電話くれたし。
   29日、『文藝春秋』7月号「きのふけふ」で広東犬を欧陽から貰ったと書いたら、内山完造から葉書、あれは陳抱一であると訂正。
 7月、洋画家・斎藤清二郎より『文楽首の研究』(翌年六月刊行)の序文を求められ、内容説明を求めると斎藤訪問、熱海で序を書く。
   8日、有楽座でロッパの劇「道修町」を観る。
   10日、松子宛和歌。月に二十日会わず。
   13日、帰宅。
   14日、志賀宛書簡、薬ありがたし予想外に早く快癒薬使う暇なけれど今後のため保存する、返事延引お詫び。
   27日、岡成志から書簡、「きのふけふ」の感想、先年胡適に上海で会った、人柄は林語堂の比でなく林に支那文化を語る資格なし。
   28日、吉川幸次郎より書簡、支那のものが流行らぬのはその冷静さゆえか。
 8月6日、小崎政房監督『思出の記』封切り、観る。
 9月、高木定五郎、須田町辺を歩いていて脳溢血の発作に遭い、両目の外側が見えなくなる。
   10日、大映お市の方』封切、監督野淵昶、大友柳太郎、宮城千賀子
 10月前後から『細雪』執筆開始、熱海の別荘に滞在することが多くなる。
   4日、熱海より土屋宛葉書、先日依頼の品到着お礼。
   「きのふけふ」最終回で、露伴のいい短冊を辰野にとられたと書く。
   23日、熱海より土屋宛葉書、28日帝劇で舞の会あるが切符売り切れ、秦社長に頼んで夜の部二枚取って貰えないか。
   25日、土屋宛葉書、切符到着お礼。
   26日、岡より書簡、「きのふけふ」の感想、拙著『日本女性美史』を送る。
   28日、巌谷栄二より書簡、「きのふけふ」で小波俳句に触れていただきお礼、いかなる短歌か単行本化の際書いて欲しい、木村小舟(1881年生、巌谷小波に師事)『少年文学史 明治篇』(童話春秋社)を送る、兄は三一。帝劇の舞の会へ出かける。
 11月2日、北原白秋死去(58)。巌谷栄二宛速達書留、本お礼、幼年時代のことを思い出す、封入の写真は小波俳句、単行本に挿入のつもりだが真偽確認されたし、三一氏には一度会ったことあるがその後御無沙汰。
 同月、家主後藤の弟清がカネに困って家を売りたいと、立ち退きを命ぜられ、増築分費用を要求するが、その要求はしないとの口約束があったためこじれ、谷崎は村会議員井上市三郎を間に立てて毎日交渉に行く。
   4日、日本評論の鈴木利貞より書簡、露伴色紙は私が所有。
   10日、巌谷より書簡、小波のものに間違いなく懐かし、小舟氏出版記念会28日亀清で行います発起人お願いしたく。
   11日、嶋中甦生記念日、伊豆山相模屋での宴会に会津八一、杉森孝次郎と招かれる。
   13日、巌谷宛葉書、会出席は難しいが発起人は差し支えなし。
   ?創元社小林茂宛速達葉書、『初昔』見本届く、先日はわざわざ、風邪で手紙書くのが億劫にて話したいことあり今一度来て欲しい。
 12月、『初昔・きのふけふ』(装幀装画佐野繁次郎)を創元社から刊行。
   8日、後藤、三千円で買い取る証書。
   14日、志賀長女留女子結婚披露丸ノ内で。
   15日、重子宛速達、昨夜電話の様子では風邪声、汽車でこじらせてはいけないので二三日遅れても昼の特急でお出で、渡邊のこと恵美子のことなど相談もあるのでお出でください、恵美子は熱も下がり吐き気もとまったので連れて熱海へも行けるので東京でも会える。
   24日頃一家で熱海へ。
   27日、土屋宛速達葉書、味の素の無心。
  この間、『中央公論』正月号に「細雪」第一回と、藤村「東方の門」第一回が載り、丸ビルの書店で発売日に列が出来たという。
   29日、中根宛、『細雪』は中公で単行本とする予定。
   30日、土屋宛書簡、品物届くありがたし。

1943(昭和18)年      57
 1月1日、大毎東日合併、「毎日新聞」に統一。
   3日、志賀より書簡、手紙ありがたく拝読、早速留女子に見せた。面語楽しみにしている、日にち分かれば里見にも知らせる。
   19日、熱海より重子宛速達、手紙拝見、アサはお清どんが戻ったら暇を貰うそうだが今月末から一週間か十日ほど百々子が熱海へ来るのでナツ一人では手不足、アサ来てくれないか訊いてくれ、明はその後どうか。
   22日、『東京新聞』に広津和郎(53)が「藤村と潤一郎」を書き、「『細雪』は甚だつまらない。何もこれに時局の認識の欠如を指摘しようなどという意向はわれわれにはない。そうではなくて、この人の文学趣味、それは直に又人生趣味という事になるのだが、その浅さ月並さが目立ち過ぎるのがやり切れなくなるのである。/もっとも最初の出発の『刺青』以来の事であるから、今更云うまでもない」とする。同日、志賀宛葉書、返事ありがたし、本月参上の筈が雑誌締め切り繰り上げで節分まで暇なく二月に参上。
   24、5日頃か、神南の竹田方に逗留中、ふと弦巻の志賀を午前中に訪ねると、昼頃広津がやってくる。志賀が気にして会わないようにし、広津も気にしたが、谷崎から声を掛けて何ごともなく食事をする(「雪後庵」)。
 月末、鮎子一家熱海へ来るか。
 2月15日、志賀宛葉書、笹沼息子の結婚で上京18日より帝国ホテルに三日滞在、21日頃お宅へ佐藤とともに行く。
   18日、上京、偕楽園で笹沼宗一郎、犬丸千代子の結婚式、鮎子夫婦も出席、帝国ホテルに投宿。
   19日、帝国ホテルで披露宴、帝国ホテル宿泊。
   21日、佐藤とともに志賀を訪ねるか。その後熱海か。
   22日、新婚旅行中の笹沼宗一郎夫婦が夕刻熱海を訪ねる(細江)
   23日、宗一郎、熱海ホテルからまたやってきて食事、最終汽車で帰京。
   27日、日本軍ガダルカナル島撤退完了。
 3月、「細雪」第二回。辻小説「莫妄想」を「朝日新聞」凸版に発表。
   3日、伊藤整、「細雪」を読んで感動(「太平洋戦争日記」)
   6日、久保義治宛葉書、福井から荷物到着お礼。
   8日、丸尾長顕(43)宛書簡、昨秋大阪でお目にかかり云々、さて渡邊家隣家田中氏令嬢宝塚女優志願で斡旋を頼まれ、名刺持たせる。住所不明につき則武氏気付。久保夫妻宛書簡、義治には、先日の魚類は令兄からのものの由、お礼言いたく伝言願う、一枝には、細雪はあなたがいた頃のことゆえ、何か面白いことを覚えていたら教えてくれ。中央公論新年号同封。 
   11日、熱海より志賀宛葉書、18日午後参上、17日上京偕楽園一泊、電話で訊ねる。   12日、熱海より志賀宛速達葉書、17日に変更、16日上京。
   16日、上京、浅草永見寺で笹沼源吾三十七回忌法要に出席、津島寿一、君島一郎も、笹沼宅泊か。
   17日、志賀訪問か。
   18日、一枝宛書簡、鎌倉彫工芸品の草履送った。四月花見に住吉へ行くので来ないか。
 4月2日、『中央公論』編集長・畑中繁雄が陸軍報道局杉本和朗少佐に呼び出され、女人の生活をめんめんと綴った『細雪』は戦時下不謹慎と批難される。
   5日、一枝宛書簡、松子重子恵美子は明日神戸へ。11日菊原検校演奏会なので来ないか。検校は当人は知らないが喉頭癌で余命幾ばくもなく、これが最後だろう。
   6日、松子重子恵美子神戸へ帰るか。六日会(陸軍報道局が都下全雑誌編集者を集め統制を加えるもの)の席上、杉本少佐は、『細雪』批難を繰り返す。かく軍や情報局から掲載取りやめ勧告が相次ぎ、六月号の第三回掲載はとりやめとなる。
   8日、偕楽園を訪問(千代子日記)。創元社小林茂宛葉書、昨日は無理なお願いいたし折角の好志を無にし恐縮、静岡に一泊して西下する。
   11日、菊原琴治検校還暦記念大演奏会、夕方五時半から大阪朝日会館で、家族みなで行く。
   18日、ソロモン諸島上空で山本五十六戦死。
   23日、反高林より一枝宛書簡、先日は夫君も来てくれたのに失礼、25日に神仙閣で改めてもてなしたいのでお出で。
   25日、久保夫妻来て神仙閣で宴か。精二宛書簡、来る五月十四日は亡母の二十七回忌ゆえ亡父も合わせてやるにつき五月九日日曜法事、終わって午後五時より偕楽園で食事、恭子、順子夫婦(精二の娘たち)も招くべきか上山君(恭子の夫)宅は知っているが住所姓名教えてほしく、こちらは夫婦と鮎子夫婦。
   30日、熱海へ。一枝宛書簡、熱海着。ハンドバッグは不良品だったので下駄を送る。「初昔」改装版が出たので送る。
 5月、『中央公論』六月号に、「細雪」中止の広告。松下英麿が書いた。
   6日、熱海より志賀宛速達葉書、8日上京、その日夕食後か十日午後訪問。六日会、
   7日、一枝宛葉書、初昔、弟さんの分は改めて送る。
   8日、上京か。
   9日、法事で精二、娘夫婦、松子、鮎子夫婦と偕楽園で食事。
   10日、熱海へ帰る。
   11日、一枝宛書簡、初昔は私と直接の関係ができないようにあなたから誰にでも上げてくれ。源氏物語もあるがどうか。今月夫婦で遊びに来ないか。
   12日、米軍アッツ島に上陸。
   14日、松子、和田同伴出立。
   16日、熱海より重子宛書簡、夏の草履の注文、さしあたりエナメルのを見つけたので送るいずれ本革のを小川でできたら送る、家政婦が見当たらなければお清どんを帰す、時節柄とはいえ女中だけは使ったほうがよし、重子は台所の用をするような人でなし、この紙は長崎手漉き、永見に二百枚ほど貰い百枚は住吉へ、もとはちり紙なそうだがこんなものを使ったら鼻やおいどが曲る。
   17日、一枝宛書簡、早く入院手術して出産してください。まだ十日ほどこちらなのでお見舞いに行けない。松子がそう言ったなら住吉にも源氏はないのかも。
   23日、土屋宛葉書、昨日は慰問の手紙お礼今日は品物、いずれ上京の折参上してお礼。久保義治宛葉書、わかめお礼。
 6月、「白秋氏と私」を『多磨』に掲載。
   15日、畑中、中央公論編集長を辞め休職、編集部長松下。
   19日、笹沼夫婦、熱海を訪問、泊。
   30日、花岡芳夫と偕楽園に行く。(千代子日記)
 7月、日本文学報国会編『辻小説集』に「莫妄想」収録。
   5日、後藤靭雄から反高林立ち退き催促の内容証明が熱海へ。
   9日、後藤宛、詫び状。
   12日、土屋を訪ねる。
   13日、土屋宛速達書留、昨日は、指図通り証書委任状作成同封、関西信託はその後三和信託、東電二百株は関東配電二百九十株。
   25日、ムッソリーニ失脚、逮捕。
   30日、荷風に『初昔 きのふけふ』届く(断腸亭)
 8月、『文學界』は文藝春秋編集となり、鷲尾洋三が編集長就任。
   1日、荷風より書簡、初昔恵贈ありがたし当方文壇とは没交渉にて不愉快なこともなし、死後の拙著始末についてなどいずれ会って相談したい。
   6日、大森区山王町佐藤観次郎宛書簡、このたび無事帰還おめでたく、文化奉公会へ転出の由激励会発起人に名を連ねることよしされど今月は多忙にて当日出席は不可、なお十月頃荷風に会いたくその節は頼む。
   8日、久保宛葉書、出立まで会えない場合は11日朝大阪駅へ見送りに行く。
   11日、久保出征見送りに大阪駅か。
   22日、島崎藤村死去(71)。
   30日、重子宛書簡、先日来大勢でご厄介いつも迷惑、さて国債二枚送る額面七十点実際は四十九点、小為替も。(「墨」)
 9月4日、土屋宛書簡、この度別邸落成熱海仲間増えて嬉し、扁額揮毫の件は右腕神経痛で不可、色紙短冊なら書く。
   8日、イタリア無条件降伏。
   14日、土屋宛葉書、返事拝見何とか試み(色紙?)、白唐紙または画仙紙お送り下さい。
 10月、魚崎町魚崎七二八ノ三七に転居。家主は酒井安太郎。
   4日、熱海より安田靫彦宛書簡、御無沙汰昨今は現住所で神経痛治療、笹沼夫人より大兄の袴よしと聞きいずれ二人で参上型をとらせていただきたい。
   20日、熱海より重子宛速達、先般上京の折は愉快、夏に会ったときより肥えてお元気の様子、歌舞伎座へお供することできずお詫びに小川で鎌倉彫草履を見つけたのでフェルトを付けさせている、くにに持たせる、今夜出立、くには21、2日にそちらへ、今月一杯くらい、泉岳寺その他見物させてやってくれ。
   30日、一枝宛書簡、療養所の件で相談したく2日大阪駅待合室で会いたい。
 11月2日、大阪駅で一枝と会うか。
   10日、魚崎より土屋宛葉書、12日夜行で上京、13日朝十時頃会社を訪ねる委細面談、投宿先は渡邊方。
   11日、志賀宛葉書、出欠のもの、欠席とし、当日は先約あり、14、5日上京祝儀に参上。
   12日、夜上京か。
   13日、土屋訪問か。
   15日、笹沼の孫・登志の七五三で偕楽園
   19日、熱海より安田靫彦宛書簡、先般はお邪魔あの節借りた袴は笹沼から返送、あれを見本に自分と笹沼二人分作った。
 12月、『聞書抄』(潤一郎六部集のうち)を創元社から刊行。六部集は四部で中絶。
   1日、第一回学徒出陣。一枝宛書簡、7日頃上京、11日朝魚崎へ行くが大阪駅へ来ないか、体調悪いならよし。
   7日、上京、江藤義成の開業する築地の病院で、高木定五郎、大隅太夫と一緒に話す(「疎開日記」)。よくこの待合室で「毎日」の小野賢一郎とも会った(「高血圧症」)。先に帰り、嶋中に招かれて鶯谷の料亭塩原で荷風と同席。
    11日、魚崎へ。
 同月、英男入営。
 この年、高橋健二編訳『子供部屋−−ドイツ現代短篇傑作集』(生活社)刊行、読むか。