谷崎潤一郎詳細年譜(大正9年まで)

jun-jun19652005-06-04

(写真は水島爾保布による「人魚の嘆き」挿絵)

1918(大正7)年        33
 1月、芥川「良工苦心・谷崎潤一郎氏の文章」を『文章倶楽部』に掲載。
   2日、戯曲「仮装会の後」を『大阪朝日新聞』に発表。
   5日、12日、19日、「襤褸の光」を『週』に連載。
   25日、芥川、鵠沼へ一泊で遊びにゆく(岡栄一郎宛芥川書簡)
 2月、戯曲「兄弟」を『中央公論』に発表。
   9日から19日まで「少年の脅迫」を「大阪毎日東京日日」に、21日から3月19日まで「前科者」を『読売新聞』に連載。
 同月、北原白秋が小田原「木菟の家」に住む。
 精二、郁子と結婚、牛込弁天町に一戸を構える。(21日「よみうり抄」)だが姑も郁子も天理教の熱心な信者だったため夫婦仲悪し。
 3月、「人面疽」を『新小説』に発表。
   精二、「父母のこと」を『中央公論』に発表。
 同月、神奈川県鵠沼の「あづまや」別館に転居。ここで英訳のプラトン全集を読んでいた(和辻回想)。以後、上京の際、新橋駅前にあった草人の「かかしや」に居候することが多く、一時期谷崎の事務所の観を呈する。
  草人、六月に『虞美人草』の上演を企画するが、夏目鏡子周辺に松岡、森田草平(38)らあってなかなか許可おりず、谷崎に周旋を頼み一旦許可を得るが覆ったりして、谷崎が、森田、草人ともに叱りつける。
 4月、「二人の稚児」を『中央公論』に発表。
   12日、草人の芝居のことで久米正雄を訪ねる。
   25日、松岡譲(28)と夏目筆子の結婚披露宴。
 5月、「金と銀」(前編)を『黒潮』に発表。『新潮』に「果して顔が好いか」(豊島与志雄氏の印象)を掲載。
   3日から14日まで芝日蔭町草人宅に滞在、「金と銀」を書く。
   20日伊香保より久米正雄宛書簡で、『虞美人草』上演について草人から依頼してきたが多忙につき、口述でも脚色してもらいたいと述べている。この時ちょうど、夏目家と松岡を敵に回していた久米に頼んでいることが興味深い。
   23日から7月10日まで、「白昼鬼語」を「大阪毎日東京日日」に連載(『大毎』は11日まで)。
   29日、国民座の初日に行く。「円光」「野崎村」「地蔵經由来」。
 6月、「私の家系(知名兄弟を産んだ父母の研究)」を『中央公論』に、「『煉獄』に序す」を『中外』に掲載。草人「煉獄」は同誌、および七月号に分載。「伊香保より」を『草汁』に掲載。小野賢一郎が創刊したもの。
   3日、草人に会い「煉獄」を褒めると有頂天。
   5日、近代劇協会の有楽座での公演『ヴェニスの商人』、ストリンドベリ『犠牲』初日、シャイロック役の草人、犬養健(23)に会う。上山珊瑚、伊沢蘭奢の初舞台。
   26日、一匡社の大村正夫宛書簡、ポオの翻訳とともに。纏めて本にする予定とあるが実現せず。
 7月、「二人の藝術家の話」(「金と銀」の加筆分と続編)を『中央公論』定期増刊「秘密と解放」号に、「人間が猿になった話」を『雄弁』に、「梅雨の書斎から」を『中外』に発表。
  佐藤、谷崎の推薦で「李太白」を『中央公論』に発表。この月、鈴木三重吉(37)、『赤い鳥』を創刊、谷崎も賛同者となる。
  支那旅行の準備にかかる。
 8月、「ちひさな王国」を『中外』に発表。(後「小さな王国」)『二人の稚児』、『羹』を春陽堂から刊行。
  『赤い鳥』に谷崎作として「敵討」が載るが、のち鈴木三重吉作「珊瑚」として現れるが、小島政二郎によると三重吉作でもなく、小野浩のもの。(全集月報)
  精二、同月から翌年1月まで「春愁」を『女学世界』に連載。
  後藤、「大連の夏」を『雄弁』に発表、以後創作の筆を絶つ。
   15日、薄田泣菫(42)宛書簡。
   27日、芥川の小島政二郎宛書簡で、先日運座をやったが、江口渙がせい子に色気を見せた句を作ったとある。
 9月、「魚の李太白」を『新小説』に発表、佐藤に献じる。「「自働車」と「活動写真」と「カフェー」の印象」「浅草公演」を『中央公論』に寄稿。同月から「嘆きの門」を『中央公論』に連載、翌年2月で中絶。
  春夫の最初の著作『病める薔薇』(十一月刊行)に序文を書く。佐藤、谷崎と中外記者の勧めで、『田園の憂鬱』を『中外』に発表。
 同月上旬、鵠沼から上京、澤田卓爾のいた愛宕下の下宿青木に一ヵ月ほど滞在。
 後藤末雄慶應義塾教員となる。
   4日、「揚出し」で帰国中の木下杢太郎、小絲源太郎、長田秀雄と。
 同月6日から15日、近代劇協会第十二回公演「信西」「ウヰンダミーヤ夫人の扇」上演される。
   12日、米谷方佐藤宛葉書、13日に芝居へ行くから江口を誘って草人方へ来い。
   13日、有楽座?
 10月、「柳湯の事件」を『中外』に発表、『金と銀』を春陽堂から刊行。
   7日、谷崎送別会が鴻の巣で開かれる。発起人は佐藤、草人。出席は樗陰、浦路、里見?、永代静雄、吉井、田中純安成貞雄、赤木、江口、久米、芥川、麻田、和田?(『中央文学』11月号)
   9日、午後四時、中央停車場から下関行き急行で単身支那旅行に出発。
   10日、夜、下関着。午後九時三十分出向の関釜連絡船に乗船。
   11日、午前九時、釜山着。桟橋発午前十時の南大門行き急行に乗車、夜京城に到着か。岸巖邸または朝鮮ホテルに宿泊か。
 京城滞在中、光化門付近を散歩。岸と朝鮮料理屋・長春館で朝鮮料理に閉口。
 平壌滞在中、朝市を見学。
   17日、この頃、新義州を経て奉天着、木下杢太郎(34)宅に逗留。杢太郎は当時南満医学堂に勤務、支那古典の研究にも手を染めていた。
   18日、杢太郎と奉天城内を観光。連名で和辻に書簡を送る。
   19日、杢太郎らと北陵を観光。
 奉天滞在中、平康里の中華茶園という劇場へ案内される。奉天城内の松鶴軒、小楽天でたびたび支那料理を食す。
   21日、この頃、京奉線の列車で奉天を発つ。
   22日、山海関の日本旅館(大和館か)に宿泊。
   23日、山海関から鉄道で天津へ。当日または翌日に天津到着。
   24日、フランス租界インペリアルホテルに滞在。杢太郎宛絵はがき。
 天津滞在中、あちこちの芝居小屋を覗く。朝鮮銀行へ行く。
   26日、この頃、北京着。十日ほど滞在。
 北京では、琉璃街の書店で、支那現代戯曲を集めた戯考をあるだけ買う。劇通の辻聴花、同文書院出身の村田孜郎、平田泰吉らに案内され、大珊欄の広徳楼で梅蘭芳・王鳳卿出演の京劇「御碑亭」を観て感心。京劇「李陵碑」「孝義節」を観る。新豊楼で山東料理を食す。万寿山の離宮、天壇、鐘楼、八大胡同などを見物か。
 11月4日、この頃、北京より京漢鉄道の一等車で漢口へ。
   6日、この頃、漢口に到着。
 漢口滞在中、武昌の黄鶴楼で海参を食す。
    8日、この頃、漢口より船で長江を下り、九江へ。
    9日、この頃、船で九江に到着、九江の租界に宿泊。
    10日、九江市内見学、租界に宿泊。
    11日、廬山へ向かい、大元洋行に泊まる。第一次大戦休戦。
    12日、廬山観光。
    19日、この頃、九江より船で南京に向かう。
    20日、この頃、船で南京に到着、石板橋南の宿屋(宝来館か)に滞在。
 南京滞在中、夫子廟、秦淮河を見学、秦淮で画舫に乗る。夜、利渉橋近くの長松東号で南京料理を食し、妓女を買おうとし、揚州生まれの花月楼という妓女を見出すが、値段が高かったので別のを探すといいのがおらず、素人女を買う(「秦淮紀行」)。
    22日、南京より鉄道で蘇州着、日本租界に宿泊。
    23日、蘇州城内へ。
    24日、画舫を傭い、天平山へ出掛ける。運河の眺めが目当てだと言う。降りてから女駕籠に乗る。白雲亭で昼食、白雲寺で乞食に悩まされる。午後三時、画舫で帰路につく。
    25日、蘇州観光。
    26日、この頃、蘇州から上海へ。文路の日本人倶楽部五階、土屋計左右の下宿に滞在。
 11月末−12月初 上海より鉄道で杭州へ。杭州の西湖鳳舞台で観た女優・張文艶に感心。
 12月上旬、杭州より上海へ。土屋計左右宅に滞在か。
    7日、この頃、船で上海を発つ。
    10日、この頃、神戸に上陸し、鉄道で東京へ向かう。
    11日、東京の中央停車場着。(支那旅行については西原大輔『谷崎潤一郎オリエンタリズム』参照)この日昼過ぎ、蠣殻町の家で記者に答える。
  その後、本郷菊坂の菊富士ホテルに投宿か。石井漠夫人八重子にリスの毛皮を土産としてあげ、仕立て屋を呼んでオーバーに仕立てる(近藤「本郷菊富士ホテル」)
 この冬、せい子(17)、下谷で藝妓になる。
 同月25、26日、久米正雄の国民座、「十五夜物語」を初演。

1919(大正8)年        34
 1月、芥川「あの頃の自分の事」(『中央公論』)で谷崎を回想。
 同月、父脳溢血で倒れ、蠣殻町に泊まる。伊勢(21)が看病に来る。
   5日から2月3日まで、「美食倶楽部」を『大阪朝日新聞』に連載。
   11日、第五次『新思潮』の中戸川吉二らが「新思潮縦の会」を鴻ノ巣で開き出席。先に着いて、後から菊池、芥川、久米らが来る。
   12日、佐藤と谷崎が幹事で、鴻ノ巣で草人送別会。
   18日から2月19日まで「母を恋うる記」を『大阪毎日新聞』に、19日から2月22日まで『東京日日新聞』に連載。
 同月、久米、小山内、吉井、万太郎、秀雄、里見ら、国民文藝会を起こし演劇改善運動に乗り出す。
 2月、「秦淮の夜」を『中外』に、「画舫記」を『中央公論』に掲載(「蘇州紀行」と改題)。
   12日から、有楽座で草人の最後の公演『リア王』。観に来てくれと連日電話をしてくるが、行けず。
   草人、山川浦路、米国へ渡ることとなり、『中外』の内藤民雄から資金を出してもらうことになるが、谷崎が電話で訊くと、まだ金が届かないと言う。
   24日、父死去、61歳。
   25日夜、通夜をしていると浦路が駆けつけ、金がないと泣きつくので、瀧田樗陰に手紙を書く。
   26日、東京駅プラットフォームへ内藤が駆けつけ、金を渡す。
 父死後も、伊勢は実家にとどまる。
 同月、精二『ドストエフスキイ評伝』を春陽堂より刊行。
 3月、「南京奇望街(「秦淮の夜」続編)を『新小説』に掲載。
   17か18日、蠣殻町の家を親戚に引き渡し、本郷区曙町十番地に一戸を構えて転居、伊勢、終平(12)、せい子も一緒。近くの駒込神明町に住んでいた佐藤春夫と交遊繁くなる。
 ワイルド『ウインダミーア夫人の扇』の翻訳を天佑社から刊行。実は佐藤春夫、澤田卓爾との共訳。
 同月、精二、創作集『地に頬つけて』を天佑社より刊行。
 久米、短編集『痴人の愛』を新潮社から刊行。谷崎以前にこの題を使った例。
   27日、病気のため約束の原稿ができないと瀧田宛書簡。
 4月、「早春雑感」を『雄弁』春季増刊号に掲載。同号は谷崎特集で、芥川「谷崎潤一郎論」も掲載。「谷崎潤一郎氏の書簡」、『中央公論』に掲載。
   芥川、大阪毎日新聞入社。
 せい子は終平を連れて日比谷の音楽堂へ行ったりした。音楽学校の分教所に通っていたという(終平)。
  この頃、今東光(22)、短編をもって佐藤から谷崎に紹介され、谷崎は関心して『我等』に載せようとして長谷川如是閑に紹介したがうまくいかなかった。旧約聖書を題材にしたもの。
 5月、「呪われた戯曲」を『中央公論』に発表。
 この頃、三井物産社員の中西周輔(31)、伊香保で千代と親しくなる。先妻との間に二人の子あり、千代に紹介されて伊勢と話すようになる。中西は、彼らが塩原へ行くとついていったりして、帰京後も親しくする。伊勢より十歳年上。(細江)
   6日、伊香保から帰り、金の無心の手紙を瀧田に。
   この頃、佐藤に、千代が気に入らないと言う。千代をステッキで打つ姿を、佐藤や今が目撃している。
   9日、久米、中戸川、今、芥川が訪ねてくる。
   11日、父母の法要。
   12日(頃)、帝国劇場で京劇の梅蘭芳を見る。
   26日、芥川を訪ね、夕方一緒に菊池を訪ねるが留守、ミカドで夕飯、神田の古書店街をまわる、神保町のカフェー、白山まで歩いて別れる(「『我鬼窟日録』より」)。
   30日、せい子を連れて芥川を訪ねる。菊池あり、帰りは9時ころ(「我鬼窟日録」)
 6月、「青磁色の女(「西湖の月」と改題)」を『改造』に発表、「支那劇を観る記」を『中央公論』に、「佐藤春夫君と私と(佐藤春夫氏の印象)」を『新潮』に掲載、『小さな王国』を天佑社から刊行。
 6・7月、「富美子の足」を『雄弁』に発表。
   5日から29日までの、歌舞伎座『摂州合邦辻』(菊五郎の俊徳丸、歌右衛門の玉手御前)を観るが、西洋人が近くにいたので、この奇怪な劇をどう観るか気になる(「初昔」)
   9日、芥川、久米、木村幹と烏森の古今亭で食事、夜タクシーで谷崎の所へ帰り、それから俥で帰る。
 7月、『呪はれた戯曲』を春陽堂から刊行。
   5日、精二宛書簡、天佑社でワイルド全集を出すにつき、『サロメ』を谷崎に訳して貰えないかという話、あるいは佐藤春夫に訳させて谷崎が名を貸す件、および妹伊勢の結婚の件。精二は佐藤を訪ねるが多忙につき断られる(結局中村吉蔵訳となる)。
   7日、小村雪岱(33)宛書簡、今月中に『近代情痴集』を出したいがどうか、装幀の表紙を先に書いてほしい。夜、芥川とすっぽんを食べに行く。
   31日、大阪朝日新聞春山武松(35)より原稿料前借(聞書、春山メモ)
 8月、「真夏の夜の恋」を『新小説』に発表。
   2日、無想庵の妹三島光子の送別会(日本橋末広本店)に、佐藤とともに参加、ほかに澤田、水島。
3日、旧江尻須賀死去(30)。
   4日、荷風宅を訪れ、『近代情痴集』の序文を依頼。
   8日、荷風、序文を新潮社に郵送、谷崎に葉書で知らせてくる。
   13日、校正刷を見て中根宛書簡、雪岱の絵未だ出来ず心配する(補遺4)
   14日、荷風宛書簡、葉書と序文のお礼、月末帰京してお礼に参上の予定とあるから、伊香保か。
   15日(奥付)「伊香保のおもひで」を高木角治郎編『伊香保みやげ』(伊香保書房)に寄稿、『人魚の嘆き・魔術師』を春陽堂から刊行、水島爾保布(36)の装画は谷崎自ら頼んだもの(今日泊亜蘭の回想)。芥川とせい子の関係で噂がたった(芥川年譜)
 同月、邦枝完二(28)を舞台監督とする「創作劇場」第一回公演。邦枝は第二回公演に谷崎の「恋を知る頃」の上演を考えるが、警視庁保安課から上演許可が下りず、「十五夜物語その他」に差し替える。
 9月、「或る少年の怯れ」を『中央公論』に発表、「性質の違った兄と弟(谷崎精二氏の印象)」を『新潮』に掲載。
  精二、『結婚期』、ツルゲエネフ『父と子』訳を新潮社より刊行。
 同月はじめ、無想庵来訪、あとから江口、芥川、久米。芥川と談論風発、無想庵はさらに博識(江口「わが文学半生記」)
   8日(奥付)『近代情痴集』を新潮社から刊行。
   10日頃、塩原妙雲寺門前の宮本家に家族で滞在中、せい子が来て、入れ代わりに家族は帰京の予定だったが、連日の雨で立てず、せい子、荷風全集第二巻と黒岩涙香訳『玉手箱』(集栄館)を持ってきて読んでいたが、谷崎も『玉手箱』を読む。「子供をあやなすことの嫌ひな私が、こんなにA子と親しむやうになつたのは全く塩原へ来てからのことであった」。今東光が来て、千代と鮎子は東京へ帰る。谷崎、せい子、東光で一緒に湯に漬かって遊ぶ(「秋風」)。
   21−27日,「十人の奴隷の告白」執筆か(「天鵞絨の夢」) 
 10月、訳「ボードレール散文詩集」を『解放』に掲載、「支那の料理」を『大阪朝日新聞』に掲載。『新小説』に「春陽堂主人白」として書かれた『人魚の嘆き・魔術師』広告文は芥川によるもの。
 10・11月、翌年1月、『社会及国家』に、芥川との共訳、ゴーチエ「クラリモンド」を連載。ハーンの英訳からの重訳。
   17日、帰京(「読売新聞」)
   20日、芥川から薄田宛書簡で、谷崎が百円くらい前借したくできたら原稿送ると言っている、交渉は直接頼む。 
 同月、谷崎は、せい子との関係を佐藤に告げ、千代に言わないで欲しいと言う。
 11月、「秋風」を『新潮』に、「或る漂泊者の俤」を『新小説』に発表。
  精二、「九月の或る日」を『中央公論』に発表。
 同月、久米、里見、吉井ら、雑誌『人間』を創刊。
 中西から伊勢との結婚の希望が寄せられ、谷崎は興信所、あるいは土屋に頼んで中西の人柄を調べる、伊勢も乗り気。(細江)
   16日、佐々木茂索(26)、小島政二郎(26)を常連とする芥川の日曜面会日に谷崎訪れる。『秋風』話題となる。
   18日、邦枝宛書簡で、「恋を知る頃」上演不可やむをえないこと。この時本所向島中之郷三十一偕楽園別荘にあり。
   26日から12月19日まで「天鵞絨の夢」を『大阪朝日新聞』に連載。
  この頃千代病気。11月末か12月、佐藤、香代子を離縁したく、千代について相談したいと谷崎に言う。万世橋のミカドへ行くが、辻に会って話せず。
 次の機会に、谷崎は、せい子を妾にする考えだと佐藤に言う。
 12月1日より七日間、有楽座にて、「創作劇場」第二回公演「春の海辺」「十五夜物語」。同月、『自画像』を春陽堂より刊行。
 精二宛、伊勢の結婚について相談の手紙が来る(精二「さだ子と彼」)
 谷崎宅へ、伊勢、精二、萬平が集まって相談。萬平は、老後の保証が欲しいと言う。
 神奈川県小田原十字町三丁目七〇六番地に転居。白秋の勧めによる。五間ある二階建て、千代の伯母の養母サダも同居、鮎子を聖公会花園幼稚園へ通わせていた(終平)。ほかに女中二人。
 この年、精二、三上於菟吉との共訳『モンテクリスト伯爵』を新潮社より刊行。

1920(大正9)年    35
 1月、「途上」を『改造』に発表、「鮫人」を『中央公論』に隔月連載開始(10月で中絶)、対話体「検閲官」を6日から26日まで『大正日日新聞』に連載(高重)、「不思議な人−−ボードレエル散文詩集」を『解放』に、日記「或る時の日記」を『雄弁』に発表、『女人神聖』を春陽堂から刊行。
 同月、芥川、ハッサン・カンの登場する「魔術」を『赤い鳥』に発表。
 同月、精二、短編集『静かなる世界』を聚英閣より刊行。
   29日、伊勢の結婚決定の件で精二宛手紙。
   30日、中根宛書簡、「ミゼラブル」は品切れかまだ到着せず(大正八年完結の豊島与志雄訳『レ・ミゼラブル』全四巻を頼んだか)、単行本の件いずれ拝顔相談、「途上」その他三四月頃刊行予定、「天鵞絨の夢」は悪作で悪作を集めて天佑社に渡す。
 2月、『恐怖時代』を天佑社から刊行。
   6日、大学令により、早稲田、慶応の大学設置が認可される。
   9日、中戸川来訪、ともに白秋を訪ねる。
 3月3日、精二宛書簡、14日頃伊勢の結婚式を執り行う。
   12日、精二、盲腸炎に罹り、結婚式出席を断念。
   14日、偕楽園で伊勢結婚式(細江)。谷崎の肝煎りで豪華な披露宴をあげ、京都、奈良、箱根の新婚旅行を終えて帰ってくると、中西は先妻との間も片づいておらず、ほかの女関係もあり、谷崎の愛読者だと言っていたのに書庫には文学書などまったくなく、伊勢失望の余り谷崎の許へ帰ろうかと思う。谷崎は結婚費用の工面で借金をし、長く苦しんだという。
 3月頃、栗原トーマスに会いに山下町の事務所へ行く。
 4月から評論「藝術一家言」を『改造』に連載、5月、7月、10月に掲載。漱石『明暗』を批判。志賀直哉「山の生活にて(焚火)」を『改造』に発表。芥川がこれに感嘆したことが、後の「筋のない小説」論争につながる。
   20日、東洋汽船社長浅野総一郎の息子良三を取締役として大正活映株式会社が創立される。
   28日、谷崎の推薦で上山珊瑚が大活の女優となる。
 5月、精二、伊勢の結婚を描いた「さだ子と彼」を『新潮』に発表。
   1日、大正活映脚本部顧問となる。月給250円。草人のところで大活の志茂成保に会って口説かれ、二回目は栗原トーマスも一緒に口説いた(丸岡澄夫)
   2−3日、北原白秋家で地鎮祭事件起こり、妻章子、池田林儀と駆け落ちして谷崎邸に来る。この時、千代が勘づかなかった谷崎とせい子の関係を、章子が千代に話す。
   4日、草人の娘袖子、危篤。谷崎は佐藤に金の後援を相談。
   9日、岩野泡鳴死去(48)。
   13日、佐藤から電報、「赤い鳥」の原稿料百円前借できないか鈴木に話してくれ。   25日、白秋と章子離婚届。
   下旬、草人の娘袖子が死に(13)、葬儀を谷崎、白秋、春夫で処理する。
   29日、新宮の春夫宛書簡、袖子の死のこと、そのうち山本実彦に引っ張られて京大阪へいく、西村伊作によろしく、とある。この頃か、佐藤から「千代よこせばなほ結構」と冗談交じりの手紙を書く。谷崎の返事は映画の話で「君も何か書きたまえ」。
 6月、シナリオ「アマチュア倶楽部」脱稿。『天鵞絨の夢』を天佑社から刊行。
 同月、佐藤、台湾、福建旅行に出発。「葛飾砂子」の映画化で鏡花に会い、鏡花はロケーションに立ち会う。
   30日、塔之沢環翠楼に、久米、田中純、長田秀雄、秋江、秋聲が集っているところへ里見と行き、九人で底倉の梅屋に一泊(秋江「函嶺浴泉記」)
 7月、『アマチュア倶楽部』の撮影、鎌倉由比が浜で開始。監督・トーマス栗原喜三郎、主演女優葉山三千子はせい子。千代、鮎子も端役で出演。東光、日出海(17)兄弟らと撮影所に行く。内田吐夢(23)、撮影所へ出入りしているのを三千子に見つかり、出演を許され、閉田富の名で端役出演。中学卒業後、俳優になりたいと言って谷崎の許へ来た高橋英一(18)、端役出演。
   12日、箱根宮之下五段紅葉館から瀧田宛手紙、『鮫人』の中断を謝罪、9月号に沢山載せる云々。
 8月、「蘇東坡−−或は『湖上の詩人』−」を『改造』に発表。
   精二、『別宴』アルスより刊行。
   10日、大阪朝日新聞・春山武松宛書簡。五月から健康すぐれず二ヵ月ほど箱根にいた。そちらへ書くのは探偵小説にするつもり、締め切り九月一杯まで待ってほしい。 
   23日,春山から五百円入金。
 10月、『鮫人』第七回で中絶。「藝術一家言」最終回。
   18日、佐藤春夫神戸港へ帰国。
   19日、「其の喜びを感謝せざるを得ない」執筆。二三日うちに第二作「月の囁き」執筆。 
 同月、新富座で春秋座公演「法成寺物語」の初演。
   20日、佐藤宛書簡。
   21日、東海道線が小田原まで通る。佐藤はそれを知らず国府津から小田原に直行、千代からせい子と谷崎の関係を問い詰められる。
   22日、千代と佐藤、連れ立って白秋を訪ね、白秋からせい子のことを諷されたり、佐藤の気持ちを探られたりする。
   月末、春夫、千代に恋情を告白。谷崎、千代を佐藤に譲る気になる。
 11月、大活二作目、鏡花の「葛飾砂子」を脚色撮影。
 同月前半、千代は京都深草江口章子のもと、あるいは紀州の佐藤のもとへ行っている(たつみ推定など)。
   17日、佐藤と千代を小田原に呼ぶ書簡。谷崎はせい子と結婚するつもりで、せい子と箱根へ行き、その間小田原で佐藤と千代が話し合い。だがせい子は高橋英一に夢中になったらしく、結婚を断る。
   19日、『アマチュア倶楽部』有楽座で封切。
   23日、田山花袋徳田秋声生誕五十年記念会、有楽座で講演会、祝賀会は築地精養軒に出席。他に芥川、佐藤、精二、里見、広津、葛西、菊池、藤森成吉、上司小剣、木下杢太郎、加能作次郎、江口渙。
  千代が惜しくなった谷崎は前言を翻し、同月下旬から12月始めにかけての三者の話し合いで、譲渡はなしになり、佐藤は怒って決裂、しかし佐藤は東京へは戻らず、澤田のいた小田原の養生館に青木貞吉の変名で入居、澤田と翻訳の仕事をする。
 12月4日、佐藤宛谷崎書簡で、先日の話し合いのことが仄めかされる。同月佐藤帰郷。   28日、丸の内有楽座で『葛飾砂子』封切。監督栗原、主演上山珊瑚。高橋英一、野良久良夫の芸名で出演。滅多に映画を観ない鏡花が観て、大変結構ですと言った(「映画への感想」)
 この年、二度目の『ゴーレム』を観るが、一度目ほど感心せず、ジョン・バリモア主演の『ジーキル博士とハイド』を観る。(「藝談」)