谷崎潤一郎詳細年譜(明治44年まで)

jun-jun19652005-06-01

一回分があまりに長いので分割することにした(2007年2月)
本年譜は試作的なもので、なるべく典拠を示してあるが、笹沼家との交流その他、甲南女子大学教授・細江光氏の研究に負う所が多い。数え年を用いている。書簡の文面は簡略化してあり、本文では丁寧語を使っているのが常体に直っているものもある。

(明治19−大正元年

1886(明治19)年      数え一歳
 7月24日、東京市日本橋区蠣殻町二丁目十四番地で、父倉五郎(安政六年生、27歳)、母せき(元治元年生、22歳)の次男として出生。長男熊吉は生後三日目に死亡し、潤一郎は長男として届けられた。生家は米穀に関する活版印刷所「谷崎活版所」。これは母の父久右衛門が一代で築き上げた。久右衛門は他にも、長女お花の夫に谷崎久兵衛を名乗らせて分家とし、もう一つの点灯夫の事業「點燈社」を起こした。祖父のほか、祖母ふさ、母の弟の庄七(18)と同居。谷崎家菩提所は日蓮宗慈眼寺。

1887(明治20)       2 
 倉五郎は祖父久右衛門の援助で、日本橋青物町に洋酒店を開業したが、間もなく経営不振のため店を閉じ、再び蠣殻町の本家に戻る。

1888(明治21)        3      
 6月10日、祖父久右衛門、58歳で死去。長男庄七二代目を継ぐ(21)

1889(明治22)        4   
 2月11日、大日本帝国憲法発布。
 父は祖父から経営を譲り受けて神田区柳原点灯社に通勤していたが、経営不振で人手に渡し、胃の持病治療のため数カ月群馬県の四方温泉に滞在する。
 一番古い歌舞伎見物の記憶は、この年浅草鳥越の中村座で6月23日から7月まで興行された団十郎の「那智瀧祈誓文覚」だという。
 11月21日、歌舞伎座開場。

1890(明治23)年       5      
 5月22日から始まった新富座の団菊左の「勧進帳」を観る。
 夏、両親が大磯の松林館へ静養に出掛けた。父、伯父久兵衛の援助で蠣殻町一丁目の通称米屋町の裏通りに丸久商店を持ち、米穀取引の仲買人となる。
 7月1日、第一回衆議院議員選挙。
 12月19日、弟・精二誕生。

1891(明治24)        6   

 この頃本家を出て浜町に住む。その後すぐ南茅場町四十五番地に移転。叔父二代目久右衛門、結婚。花嫁は東京湾汽船会社社長桜井氏の娘・菊。しかし以後、菊を追い出して柳橋の藝者おすみを入れる(精二)
 3月、歌舞伎座団十郎、市川権十郎らの「出世景清」「芦屋道満大内鑑」その他を観る。
 5月11日、ニコライ遭難事件。
 6月、歌舞伎座福地桜痴春日局」「幡随長兵衛」を観る。また寿座で、「義経千本桜」を観る。
 10月28日、濃尾大地震
 京橋区霊岸島の小岸幼稚園に短期間通う。
 11月、歌舞伎座で、「太閤軍記朝鮮巻」「復讐談高田馬場」を観る。

1892(明治25)年。      7  
 5月28日からの歌舞伎座団十郎らの「酒井の太鼓」を観る。
 9月、日本橋区坂本町二十八番地の阪本尋常小学校入学。四月から学校へ行くのを嫌がったため、二学期からの変則入学。校長は岸弘毅、担任は稲葉清吉。内気な坊ちゃん育ちで、通学に乳母の付き添いを必要とし、欠席多く、その年は落第。ばあやは天保年間生まれの「みよ」。潤一郎出生の時に雇い入れられた。

1893(明治26)        8   
 1月、市村座で「犬荘子噂高楼」という八犬伝ものを観るか(細江)
 3月、歌舞伎座で団菊の「東鏡拝賀巻」「鏡獅子」「黒手組助六」を観る。鏡獅子の初演で、団十郎の二人の娘が出たもの。実朝の首が落とされる場面にエロティックな刺激を覚える。
 4月、出席不足で落第、一年をやり直す。担任、野川ギン(門に言)榮。
 弟・得三生まれるが千葉県葛飾郡中山村の小泉という大きな薬種家へ里子に出される。
1894(明治27)        9   
 2月11日、紀元節の日、軍人・野津鎮武に連れ回される。野津はのち朝鮮併合に関わる。
 首席で二年級に進む。亀嶋町の支那料理店偕楽園の一人息子・笹沼源之助と知り合う。笹沼源吾、東の子。笹沼から、赤ん坊がどこから生まれるか教わって驚く。
 この頃、丸久の営業思わしくなく、南茅場町五十六番地の路地裏に転居。
 6月20日、午後二時四分、明治年間最大の地震
 7月末、牙山陥落に際して漢詩のごときものを書く。
 8月1日、日清戦争開戦。

1895(明治28)年       10   
 『少年世界』創刊され、早くから購読する。
 4月27日、日清講和条約調印。
 6月8日からの赤坂の演伎座、「怪談実説皿屋敷」「河内山」を観に行く。新蔵、猿蔵、染五郎など。

1896(明治29)年       11   
 1月6日から20日までの間に、母と伯父に連れられて明治座菊五郎の「義経千本桜」を観る。
 妹・園誕生。初めての女児ゆえ、家に置かれたという。
 4月、精二、阪本尋常小学校入学、担任は今井いく。

1897(明治30)        12   
 2月、阪本尋常高等小学校尋常科第四学年を卒業、
 4月、高等科第一学年へ進級。担任は再び稲葉清吉で、四年間受け持ち、谷崎に大きな影響を与える。
 同月、歌舞伎座で、団十郎らの「侠客春雨傘」「和田合戦女舞鶴」を観る。後の六代目菊五郎の丑之助に注意を向ける。
 4月26日、「おこの殺し」事件が起きる。6月、河合武雄、伊井蓉峰らが芝居にする。それから一月後くらいに、寿々女の一座が明徳稲荷のお神楽堂でこれを上演し、観る。
 6月28日に尾上菊之助が没し(30)
   30日、その葬列を見に出掛け、鎧橋通りの三原堂の近所で待つ(「その日は日曜だったのか、それとも葬式の時刻が遅かったのか、孰れかであったろう」とあるが、当日は水曜日)
 7月9日、市川新蔵が没し、この葬列も人形町通りで見る。
 大阪仁輪加の鶴屋団十郎一座が、遊楽館で上演するのをこの頃観たか。

1898(明治31)        13   
 1月、巌谷小波の『新八犬伝』が『少年世界』に連載され始めて、これを耽読する。
 3月、橋本市松、野村孝太郎主催の筆記回覧雑誌『学生倶楽部』に、笹沼、脇田甲子之助らと参加(第一号発行は15日)。編輯所は二号から偕楽園に移る。
 4月、『学生倶楽部』二号に「学生の夢」「蒙古の襲来」「一休禅師」を発表。
 5月、『学生倶楽部』三号に、「楠公論」「東京」「日本歴史雑話」や懸賞小説「五月雨」を発表。
 ばあやのみよ、脳溢血で死去(68)

1899(明治32)        14  
 『少年世界』、帝国文庫、続帝国文庫などを愛読、日本橋亀嶋町にあった貫輪吉五郎経営の漢学塾・秋香塾、京橋区築地明石町にあった英国婦人サンマーの経営する欧文正鴻学館(通称サンマー塾)に通う。秋香塾は脇田も一緒。
 11月5日、次女伊勢生まれるが、葛飾の農家に里子に出される。

1900(明治33)年       15   
 3月、笹沼、高等科三年で修了し、府立尋常中学の築地分校(後の府立三中、現在の両国高校)に入学。
 この頃、幸田露伴の『ひげ男』や『二日物語』を読んでいたという。初めて読んだ大人の小説は、村井弦斎の『桜の御所』ではなかったかという(「直木君の歴史小説」)

1901(明治34)年       16   
 伯母・花死去(44)
 3月、阪本尋常小学校高等科第四学年を二番の成績で卒業。
 4月、修学旅行で箱根底倉梅屋旅館に泊まる。特別に笹沼も参加。
 父は商売不振のため、中学進学を断念させ丁稚奉公に出そうとしたが、本人の懇願、稲葉先生の勧告、伯父久兵衛の援助で、4月、麹町区日比谷にあった府立第一中学校入学。一級上に辰野隆(14)吉井勇(15)土岐善麿(17)、同級に大貫雪之助(晶川)、土屋計左右(14)、伊庭孝(15)、恒川陽一郎がいた。文藝部員となる。笹沼は府立第三中学校に行き「豚」とあだ名される。
 10月、『学友会雑誌』第三五号に漢詩「牧童」掲載。
 12月、『学友会雑誌』第三六号に漢詩「護良王」「観月」「残菊」「歳末の感」などを掲載。

1902(明治35)年       17  
 1月、『少年世界』に「時代と聖人」を投稿、三等で掲載。
 2月、『少年世界』に「日蓮上人」を投稿、賞外で掲載。
 3月、『学友会雑誌』に、「厭世主義を評す」を発表。
 6月、父の商売苦境に陥り廃学を迫られたが、漢文担当渡辺盛衛の斡旋、貴族院議員原保太郎の世話で、築地静養軒の経営者北村重昌宅(京橋区采女町、現在の中央区銀座東五丁目)に住み込み家庭教師となり、主人の末弟二人を教えるほか雑用もする。『少年世界』に「海」賞外で掲載。
 9月、成績抜群のためいったん退校し三年生の受験をし再入学、辰野らと同学年になるが、なお首席だった。父は、神田鎌倉河岸二一号地で下宿屋「鎌倉館」を営んだ。
 この年、三女末生まれ、「生れるとすぐ桂庵の手から或る家へさとに出されたが、其の家の主人と云ふのは養育料を目当にして方々の赤児を引取らうとする悪者であつた為め、彼の女は碌に乳も与へられず、栄養不良に陥つてからもう少し放つて置かれたら死んでしまふところだつた」。両親が取り戻し、他の家へ里に出された。

1903(明治36)年       18  
 2月、五代目菊五郎死去(60)。尾上丑之助、六代目菊五郎を襲名。
 5月22日、一高生藤村操「巖頭の感」を残して日光華厳の滝から投身。谷崎と同年。 6月、『学友会雑誌』三八号に、「道徳的観念と美的観念」発表。
 9月、九代目団十郎死去(66)。『学友会雑誌』会幹となり、同誌四一号に「夏季休暇」「無題録」を掲載。
 12月、『学友会雑誌』四二号に、自叙伝ともいうべき「春風秋雨録」や「友におくるうた」など掲載。

1904(明治37)年       19  
 2月、日露戦争開戦。
 3月、精二、阪本尋常小学校高等科卒業。
 5月、『学友会雑誌』四三号に「文藝と道徳主義」「みづぐき」「述懐」掲載。
 9月、精二、工手学校(工学院大学の前身)予科に入学。
 12月、『学友会雑誌』四四号に「起てよ、亜細亜」など掲載。

1905(明治38)年       20   
 2月、『学友会雑誌』に「うたほぐ」など掲載。
 3月、東京府立第一中学校第五学年を卒業。笹沼は三中を卒業。
 月末、穂積フクが小間使いとして北村家へ来る(死火山)。
 5月18日、園の日記に、伊勢が里方から引取られてきて、家へ帰ると泣いているという記事がある。(精二「妹」) 
 7月、第一高等学校英法科に入学。金森徳次郎(20)、湯沢三千男、膳桂之助を知る。この頃、伊勢、葛飾小松川の叔父・万平宅へ養女にやられる。万平は地底の水脈や鉱脈を掘りあてる仕事をしていた。
 8月、ポーツマス条約締結。
 9月、笹沼は蔵前の高等工業を受験するが失敗、一年浪人する。精二、本科に進む。
 9月5日、日比谷焼き打ち事件起こり、精二これを実見する。

1906(明治39)年       21  
 春、大貫の妹かの子(17)に初めて会う。
 この頃か、谷崎、大貫と、万平宅の伊勢をたびたび訪ねる。また末もこの頃萬平の養女になるか。
 この頃、得三の養母没し、養父は悲しみから酒に溺れ、家業も家屋敷も人手に渡り、東京に出て、得三を浅草の店に奉公に出す(伊勢)。
 一高では菊池寿人の「源氏物語」の講義を聞く。(志賀対談)
 7月10日、新橋の伯母のもとへ逃げていたフクが戻り、二人で手を握って銀座を散歩する。
 9月、笹沼、高等工業電気工学科に入学。
   10日、和辻哲郎(18)、九鬼周造、立沢剛、大貫、春山武松、一高入学。
 10月10日から11月4日までの歌舞伎座川中島合戦」「河庄」を観る。鬼児島弥太郎猿之助山本勘助八百蔵、羽左衛門、治兵衛は十七年ぶりに上京出演の鴈治郎
 12月2日、二世市川左団次(27)、洋行に出発。

1907(明治40)年       22  
 1月20日、精二(17)宛書簡、書生になりたいという希望に苦言を呈する。
 2月、文藝部委員となる。他に杉田直樹、岸巖、行森昇。
  精二、工手学校電気科卒業、東京逓信局工務部通信工手に採用され、丸の内にある発電所の夜勤員となる。やがて文学を志し、午前は国民英学会に、午後は正則予備校に通学して早大受験準備をなす。
 3月、『校友会雑誌』に「狆の葬式」掲載。北村家での経験に取材したもの。
   17日、笹沼源吾死去、64歳。
 4月、箱根に遊びフクに会う。
 5月9日、フクに結婚を申し込む手紙を出す。
   11日、フクから「恋ひしき恋ひしき谷崎様へ」という手紙が来るが、結婚はムリだと言う。
 6月、フクに宛てた恋文が発見され、父北村家に呼び出され、北村家を出される。父、潤一郎を連れて一中の担任渡辺盛衛を訪ねると、自分が引き受けて家から通わせると言うが渡辺は浪人中で逼迫していたからそれもできず(精二)、一高朶寮(向ケ丘)に入り、学資は伯父久兵衛と、笹沼源之助の援助を受けた。津島寿一(20)、君島一郎、藤井啓之助らを知る。フクは箱根塔の沢の温泉宿を営む実家に帰されたが、二人の交際はその後もしばらくつづいた。
 『校友会雑誌』に「うろおぼえ」掲載。同号に和辻「炎の柱」掲載。
 7月8日、箱根福住旅館から大貫宛絵葉書、どうなるか分からぬ。
 8月7日、左団次帰国。
 9月、府立三中より後藤末雄(22)、一高文科入学。ほどなく『校友会雑誌』に詩「べつたら市」を出して谷崎に褒められる。
 10月10日から11月4日まで、初代中村鴈治郎の出る『心中天網島』を歌舞伎座で大貫とともに観る。『校友会雑誌』に後藤の短歌掲載。
 12月、『校友会雑誌』に「死火山」掲載。フクとの事件に取材したもの。
 一高時代、弁論部主催の講演会に木下尚江(39)招かれ、これを聴きに行って、前座たる安倍能成(25)の「クオヴァディスを読む」に感心し、英訳『クオ・ヴァディス』を一週間かけて読む。
 フクが東京へ逃げてきて、本郷菊坂の菊富士館に下宿する津島に助けられて匿う。また精二の部屋へ入れて精二に見られたこともある。またある日、「My dear brother, an evil accident which happened to me and her, obliged me to go to Hakone as soon as possible」という書き出しの置き手紙を机上に発見、両親に分からぬよう英文で書いたのだろう(精二)。

1908(明治41)年       23  
 1月、文藝部委員交代、和辻、大貫らに代わる。
   15日より左団次の革新興行、松居松葉「袈裟と盛遠」他、明治座で上演、観る。ただし失敗に終わる。
   26日、恒川から大貫宛書簡、谷崎は病気のよし。
 3月24−4月22日、歌舞伎座で上演された『伽羅先代萩』を観る。仁木の団蔵に感心(「藝談」)。左団次、山崎紫紅の新作「歌舞伎物語」その他上演、観る。
 4月、『学友会雑誌』に「増鏡に見えたる後鳥羽院」掲載。これは一中同窓会如蘭会評議員としての寄稿。
 5月21日−6月14日、歌舞伎座で上演された『義経千本桜』、渡海屋の団蔵を観る(「藝談」)
 7月初旬、卒業記念に塩原温泉に遊び、熊に遭遇する。みな、谷崎は運動神経が鈍いから逃げ遅れて食われるだろうと思ったという。
   10日、第一高等学校卒業。
   12日、大貫宛書簡、植村正久によってキリスト教に心酔しつつある大貫に、神とは事実を直視する勇気なき者がこしらえる偶像である、と説き、最近は国文の復習に「十六夜日記」「更級日記」「大和物語」を読む、イプセンの「われら死者立ち上がる時」「野鴨」を(英文)読んだがあまり感心せず。
 9月、東京帝国大学国文学科に入学。
   13日より左団次一座、岡本綺堂新作「維新前後」など上演、観る。
 末弟・終平生まれる。

1909(明治42)        24  
 1月、「スバル」創刊され、鴎外、白秋、啄木、平出修(32)、吉井勇ら集う。
 史劇「誕生」を『帝国文學』(編集長栗原武一郎)へ送ったが没となり、自然主義に妥協した「一日」を書いて、恒川の手を経て平出修に見せると、平出は面白いと言って『早稲田文學』の相馬御風(27)に掛け合うと言ったが纏まらないので恒川と平出を訪ねると、御風の手紙を見せられる。遂に纏まらず、失望と焦慮から強度の神経症に罹る。
 2月から春まで、茨城県助川(現、日立市)にあった偕楽園別荘に転地療養、花岡、大塚といった実業家と知り合う。ここで永井荷風(31)の『あめりか物語』を読み、元気づけられる。
   22日、勿来、平潟に遊ぶ。
   24日、大貫宛葉書、イムポ−センスと葉書受了、S(曽野律の姉?)のことは同情するが今手は出せない、小説できたので見せる、一度来い。
 3月、吉井勇、戯曲「午後三時」を発表。
  精二、早稲田大学高等予科に入学。同級に広津和郎、白鳥省吾、一年下に宇野浩二日夏耿之介、二年下に西条八十青野季吉
 7月1日、和辻、大貫ら、一高卒業。
   12日、大貫宛書簡。
   13日、大阪へ赴任する大島堅造を新橋駅に見送る。
   16日、盂蘭盆の日、笹沼のヨットで大塚常吉と品川沖へ出て、隅田川を上った所で、源森橋で荷船と接触九死に一生を得る。
   笹沼源之助、高等工業を卒業。
 9月10日、和辻、東京帝大哲学科入学、大貫は英文科。和辻は『帝国文学』編集委員となる。
 10月、武蔵青梅へ旅行
   9日、大貫宛葉書で、翌日帰京の予定を告げる。『校友会雑誌』に後藤「宿直室」掲載。
 11月27日、自由劇場旗揚げ公演「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」を観にいき、挨拶する小山内薫(29)を見る。
   28日、笹沼、17歳の喜代子夫人を迎える。

1910(明治43)        25  
 1月、歌舞伎座で「源平布引滝」「豊臣天秀尼」「鰻谷」など観るか(「羹」)
 この頃、新聞記者になって時節を待とうかと思い、山形新聞、青森新聞等へ頼み込んで、山形に決まりかけた(秋田説もあり)。「寒い国だからというので母は兄のために綿を沢山入れた綿入れの着物をせっせと縫っていた。『東京に生れて、わざわざ田舎の新聞記者になるなんて情ないね。みんな心懸けが悪いからだよ。』母はそう愚痴をいった」(精二)
 後藤に連れられて月島に小山内薫を訪ねる。東大卒の文士として、以後小山内を師と仰ぐ。
 3・4月、和辻翻訳ショーの「恋をあさる人」が『演藝画報』に掲載さる。小山内の推薦。
 4月、神田南神保町十の裏長屋に転居。現在の北沢書店の裏。精二が早稲田へ通う便宜のため。
 この頃、伊勢小学校卒業か。ずっと首席で通したため、担任が惜しがって女学校へ上げるよう実父に進言するが入れられず。
   1日、『白樺』創刊。志賀直哉(28)「網走まで」。
 5月、偕楽園の女中の一人「おきん」(18)に激しい恋をし、フクを捨てて結婚を考える。吉井勇の戯曲「偶像」「夢介と僧と」発表。『三田文學』創刊。
   16日、岸巖におきんと結婚したいと打ち明けると、非難される。
   18日、大貫宛に恋を打ち明ける手紙を書く。
 その後、母に相談して許諾を得るが、当人に断られる(「幼少時代」)。
 6月10日、『新思潮』の件で和辻に手紙。
 7月、『白樺』に日下?の「給仕の室」発表.
   25、26日、精二(21)の「十二歳の時の記憶」、萬朝報の懸賞小説に当選して賞金十円を貰い、この両日掲載さる。
 8月7日、原稿の催促で、郷里播州の和辻に葉書。
   30日、大貫かの子、岡本一平と結婚。
 9月、小山内薫を中心に『新思潮』第二期創刊される。同人は、和辻、小泉鐡(まがね)、後藤末雄、大貫、帝大生ではない木村荘太(22)。谷崎は笹沼の出資を仰ぎ、五十−二百円(不明)を貰う。創刊号に、「誕生」「『門』を評す」を発表。和辻の戯曲「常盤」、後藤の「忘却」も掲載。五百部印刷するが、小山内がこの号のみ書いた「反故」のため、発売三日目に発禁処分になる。この頃「刺青」も書き、雑誌が出る前に木村に見せ、感嘆される。授業料未納の通知を受けるが、あえて支払いに行かず。同月、吉井勇第一歌集『酒ほがひ』(昴発行所)刊行。
   6日、雑誌出来、7日午後三時から根津娯楽園で同人慰労会。木村と谷崎、柳橋の芸者お染の話で盛り上がって木村泥酔して嘔吐、始めて加わった独文科の立澤剛、二三日後に脱会の通知をしてくる。9月15日和辻宛葉書でこの件が触れられている。
 10月『新思潮』二号に、「象」「The Affair of Two Watches 」を発表。市川団子、二代目猿之助襲名(喜熨斗正泰、23)
   箱根塔ノ沢の大水に万龍人事不省のところを恒川が救う。
   18日、木村の書斎で和辻と三人で「新思潮」用鼎談。
 11月『新思潮』三号に「刺青」を発表。好評を期待するも、さしたる反響なし。和辻・木村との「Reral Conversation」。「三田文学」にゴオリキイ、小山内訳「夜の宿」掲載。
   20日日本橋大伝馬町の三州屋で開かれた「パンの会」の集まりに出席し、永井荷風に会う。ほかに、与謝野鉄幹蒲原有明、小山内、木下杢太郎、久保田万太郎、白秋、長田秀雄(26)、幹彦(24)、岡本一平高村光太郎ら。『白樺』からは正親町公和と里見紝。酔った谷崎は里見に、日下の「給仕の室」が良かったと言う(里見「青春回顧」)。秀雄は入営前だったが「刺青」を褒める。木村は「河内楼のモナリザ」を高村から奪い、決闘するかもしれないと谷崎に言う。
 『新思潮』同人では後藤、木村と仲良く、放蕩生活をしていたので、長与善郎が後藤を殴りつけたりする。 
 自由劇場『夜の宿』の稽古(明治座)に、小山内、和辻に連れていかれ、和辻から左団次(31)を紹介され、その後和辻とともに明治座の楽屋で天ぷらそばを振舞われる。(「左団次を悼む」)
 やはり舞台稽古に行き、荷風を見つけて、「刺青」の載った『新思潮』を渡す。
 12月、「麒麟」を『新思潮』4号に発表。注目される。『ホトトギス』に安倍能成「十一月の小説『刺青』」。『三田文学』に吉井「夢介と僧と」発表。
   2日、有楽座で自由劇場第三回試演、ゴーリキ『夜の宿』。その夜、左団次、小山内、生田葵山らと銀座の台湾喫茶店へ行く。
 新橋の花月で忘年会。小山内、吉井、秀雄、猿之助、木村、和辻。二階の中沢臨川の座敷へ乱入する。
   22日、鴻の巣に吉井といると志賀と里見が来る。
 この頃、伊勢、実家をよく訪れる。

911(明治44)        26   
 1月 戯曲「信西」を『スバル』に発表、初めて原稿料を貰う。「「夜の宿」と「夢介と僧と」と」(『新思潮』自由劇場特集号)
 同月、大貫晶川、ハツと結婚。
 2月「彷徨」(長編未完)を『新思潮』6号に掲載。岡本かの子も感想を発表。
   精二、処女作「おびえ」を『劇と詩』に発表。『国民新聞』の文藝時評で片上伸に褒められる。
   10日、精二宛書簡、その作品「二人づれ」を『三田文學』へ斡旋する件で、あまり出来がよくないとし、梅毒が再発して苦しんでいると告げている。
   22日、『新思潮』の金策のため鰺ヶ沢出身の岸巖が、父親の友人が貸してくれるというので東北旅行に出て、青森県浅虫に宿泊。それから青森、弘前、木造。
   26日、鰺ケ沢に宿泊。それから秋田。
 3月、『新思潮』7号、芦田均(25)翻訳の「パンテオンの対話」のため発禁、この号を最後に廃刊。一時、『スバル』の同人となる。
   20日 この前日あたり帰京か。和辻へ葉書。荘太と荘八宅へ。
 晶川宛手紙で、岡本一平に借金を頼んだがうまく行かず打ち切ったとある。
 4月9日、吉原大火。
 5月22日、文相・小松原英太郎官邸で文藝委員招待会が催され、鴎外、上田万年上田敏、佐々醒雪、芳賀矢一、抱月、饗庭篁村露伴大町桂月らが集まる。
 6月、「少年」(『スバル』)、近松秋江が新聞の月評欄で褒める。
   3日、第一回文藝委員会、先の顔ぶれに巌谷小波
   9日、笹沼東夫人、歌舞伎座で「心中宵庚申」を観ていて気分が悪くなり、死去(62)。
   11日、東葬儀。
   23日、第一回文藝委員会、先の顔ぶれに巌谷小波
   24日、妹園、腸結核で死去(16)。伊勢と末も駆けつけるが、谷崎は不在。
 この後あたり、得三(19)が実家を訪ねている(精二「骨肉」)。しかしその後、悪い仲間に誘われて盗みをはたらき、警察に捕らえられ、以後行方不明となる。
 7月、『ホトトギス』に宮本生「六月の小説『少年』」。『白樺』に生田蝶介「小説と戯曲『少年』」。久保田万太郎(23)の処女作「遊戯」、『三田文学』に掲載。
   3日、第二回文藝委員会、漱石「門」、藤村「家」、荷風「すみだ川」、「刺青」が推される。   
   11日、授業料未納で大学を退学処分となる。同月、吉井勇の戯曲集『午後三時』(東雲堂)に鴎外の序文を頼むが「さあさあ吉井君の藝当を御覧なさい」と書かれて吉井が憤慨していたと記憶。だが調べてみると「技倆」になっている。(「雪後庵」)
   20日、「国民新聞」の時評で近松秋江が「少年」を褒める。
   22日、大貫宛書簡、退学処分でこれを機に辞めるかもっと運動するか。
 8月、荷風、『三田文學』の「短夜」で「少年」を礼賛する。
 8−9月、小山内『大川端』を『読売新聞』に連載。
 9月、「幇間」を『スバル』に発表。
 同月、平塚らいてう青鞜』を創刊。
   12日、七世市川団蔵死去(76)。「藝談」で、団蔵存命中に28、9歳(谷崎と同年)の中村吉右衛門に会ったと書いているが、記憶違いか。
   17日、神田の西洋料理店「みやこ」で開かれた白秋の『思ひ出』出版記念会で、上田敏が「少年」「幇間」を絶賛する。ほかに鴎外も、「麒麟」などを褒めてくれたと耳にする。
   24日、夕方永田亭で荘太と荘八、和辻、長尾豊と。吉原から上野公演を散歩し、荘太と荘八宅に泊。
   25日、木村兄弟と下渋谷の小山内新宅訪問。 
 10月、荷風の依頼で「飆風」を『三田文學』に発表するが、この作が風俗壊乱とされて発禁となる。
   2日、荘八を訪ね、共に荘太、後藤を訪ねる。
   11日、『東京日日新聞』に「文壇の彗星谷崎潤一郎」小野賢一郎の記事。
   27日、帝国劇場へ「寂しき人々」を観に行き、鴎外と初対面。
 11月、『三田文學』誌上で荷風が「谷崎潤一郎氏の作品」を書いて激賞し、文壇的地位が固まる。『新小説』で宮本和吉「十月の小説『飆風』」。「飆風」を読んだ瀧田樗陰(30)が訪れてきて、「秘密」を『中央公論』に発表。原稿料一枚一円。
 長田幹彦「澪」を『スバル』に翌年3月まで連載。
 12月、『新小説』に、能成「十一月の小説『秘密』」。
   10日、短編集『刺青』を籾山書店から刊行。永見寺の笹沼東墓前に供える。
   23日、静養先の鵠沼東屋から和辻宛、来訪を慫慂する手紙を使者に持参させる。画家・上野山清貢(23)が訪れて和辻の事情を話したらしく、30日、上野山に和辻宛の手紙を託している。
 自由劇場の上演に左団次が「信西」を推すが小山内の反対で流れる。(「青春物語」、時期不明)
 この暮、母方の祖母死去(73)。