サリンジャーとチャップリン

 横山孝一氏から送ってきた論文「J・D・サリンジャーの謎を解く-失恋体験とその影響」(新生言語文化研究会編『英米文学の原風景-起点に立つ作家たち』(音羽書房鶴見書店、1999)を読んで、ちと調べものをした。サリンジャーは太平洋戦争勃発で志願して兵士になる前に、劇作家ユージン・オニールの娘ウーナとつきあっていて、戦地からも手紙を出していたが、ウーナは突然、三十歳年上のチャールズ・チャップリンと結婚してしまった。横山氏はその後のサリンジャー作品に、この失恋の痕跡を見出し、64年に『チャップリン自伝』が刊行されて、そこにウーナとの睦まじい写真が掲載されていたのが、サリンジャーが筆を折った原因だと言うのである。
 さて、作家イアン・ハミルトンは、1980年代、テキサス州オースティンのハリー・ランサム人文科学研究所で、サリンジャーの書簡を大量に発見した。ここは現代作家の自筆草稿を数多く集めている場所だった。ハミルトンはそれらを引用しつつ『In Search of J.D.Salinger』を書いたのだが、校正刷りの段階でサリンジャーから、不法引用として抗議され、二度書き直したが、裁判に持ち込まれて、一審でハミルトンと出版社が勝ったが、二審で逆転され、ほぼ書簡の引用がないままに著作を上梓、これが『サリンジャーをつかまえて』として邦訳された。しかるに、サリンジャーは法廷闘争のため、これら書簡を著作物として登録したため、前より簡単に見られるようになったのみか、話題になったために却って人々の関心をひきつける結果となった。
 その手紙の中でサリンジャーは、チャップリン夫妻の様子を揶揄している。これは翻訳家・諸岡敏行「どうして、ほっといてくれないんだ!とD.J.サリンジャーはいった」(『ユリイカ』1990年3月)に一部翻訳されている。横山氏はこれを孫引きしている。そして、ハミルトンが、この手紙には恋人を失った喪失感は窺えない、としたのを、「お粗末な洞察」と書くのだが、横山氏は手紙の全文を見ていないらしいので、ちと困る。米国へ渡るか、誰かに頼むかして全部見るべきだったろう。
 要するにこれも、日本人の外国文化研究の変なところで、仮に『チャップリン自伝』が出たことでサリンジャーが筆を折った、として、その程度のことを米国で誰も言っていない、ということを確認しなければ、この論文のオリジナリティは保証されないわけである。

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小林信彦の『ちはやふる奥の細道』をちょっと読み、筒井康隆の「色眼鏡の狂詩曲」を読む。西洋人が日本を誤解して研究する事例を誇張して描いたものだが、あまり面白くない。なぜなら、『ラストサムライ』のほうが凄いからで、小説のほうは誇張しようとしているのに、現実に存在するものがあのざま、ということで、空回りしてしまっている。何しろ日本語ができないのに日本のエロス研究で本を書いている女から質問を受けたことがあるので、やっぱり現実のほうが凄いのである。もっとも、日本人でも、変な日本文化論を書く人はいるわけである。
 そういえば「色眼鏡の狂詩曲」は、総理大臣が「ショーグン」のところへ行くがあれはもとは「テンノー」だったのを編集部で変えさせたんだ。テンノーでないとおかしいのだ、あれは。